小樽 石原裕次郎記念館は、惜しまれつつも2017年8月に閉館となった。本記事は閉館前の2016年に取材されたものとなる。石原裕次郎さんが幼少期に過ごした小樽の地に構えられたその記念館の記憶をここに留めておきたい。
【小樽 石原裕次郎記念館バーチャルツアー Vol.4】
【3】から続く 現在、石原裕次郎記念館の館長を務める浅野謙治郎さんは、設立当初からかかわり、すでに25年を迎えた。
「本当は1年間だけの約束だったんですよ。ちょうどその頃は『代表取締役刑事』を制作していたときで、私もかかわっていましたから。ですが、元石原プロ専務の小林さんから頼まれて……。1年間という期間限定ならしょうがないと思って引き受けました」と当時を振り返る。しかし、記念館には運営会社を入れる予定だったが、バブル崩壊によってその会社がなくなってしまい、計画がストップ。結局、石原プロ直営となったことで、浅野さんは記念館に留まることとなる。
こうして四半世紀、小樽の地を支えてきた浅野さん。この記念館には開館以来、守り続けていることがある。
「この記念館は裕次郎さんの遺品館でもあります。なので、生前、裕次郎さんが愛用していたものだけを展示しているのです。ファンの方から裕次郎さんに関するものを寄贈したいというお話をいただくのですが、丁重にお断りしています。裕次郎さんが所有していた本物だけを飾りたいので」と語る浅野さん。つまり、寄贈品をひとつ展示してしまうと、あれもこれもと集まってしまうだけでなく、本物の愛用品のなかに寄贈品が入ることで本物が本物に見えなくなってしまうということだ。これだけのこだわりを持っているからこそ、開館25年がたった今でも価値が色あせず、ファンが集まるのだろう。
>> 【画像38枚】海を愛した裕次郎さんが、ハワイで使っていたヨットも展示されていた さて、先にも触れたように、浅野さんはもともと石原プロで制作をしており、西部警察には初期から携わってきた。そして、記念すべき第1話で登場した装甲車レディバードを操縦していたのは、何を隠そう浅野さんだったのだ。
「レディバードは、前は見えない、真っすぐ走らないで大変だったんですよ。そういえば、裕次郎さんも少しだけ運転しましたね。たしか、10mくらいでしたけど。とても楽しそうでした」と話し、さらに続ける。「撮影は日曜日にすることがほとんどでした。人もクルマも少ないですから。でも、当時の東京都心は、日曜日に環状七号線の外側から内側へ大型車は入れなかったんですよ。だからレディーバードは土曜日の夜のうちに積載車に載せて新宿西口公園あたりに待機していたんです。国会議事堂前や銀座、晴海での撮影は全部そうやっていました。」と浅野さん。
【石原裕次郎記念館 浅野謙治郎館長】石原プロモーションで制作担当、制作デスクを歴任。「大都会」や「西部警察シリーズ」、「ゴリラ 警視庁捜査第8班」の刑事ドラマ黄金期を支えた立役者。 西部警察といえば派手なカースタントや爆破、銃撃戦のシーンが真っ先に思い浮かぶが、そんな撮影がよくできたものだと驚きを隠せない。
「普通、『街のど真ん中でクルマを爆発させます』、『クルマをひっくり返します』って言ったら道路を管理する役所も警察もやらせてくれませんよ。今だから言えますけど、許可申請をするときに『警察が犯人を追いかけるシーン』として許可をもらっていたんです。でも、爆破はするわけです。消防にだけは事前に伝えていましたが、そうすると警察が飛んできてこっぴどくしかられる。そんな繰り返しでした。今では絶対にできないことですけどね」と制作の裏話を教えてくれた。だが、怒られるばかりではなかったそうだ。
「たとえば、京都府警は名神高速を通行止めにしてくれたんですよ。それで渡さんが運転するスーパーZが高速道路を疾走する有名なシーンが撮れたんです。それに西部警察ファンの方が多くて、無茶な撮影にも協力していただいたことがたくさんあります。我々制作の人間や、裕次郎さんや渡さんをはじめとする俳優陣、スタントマンだけではなく、西部警察を理解してくれた皆さんのおかげで、迫力のあるシーンを撮影できたのです」と浅野さんは最後に語った。西部警察を愛するすべての人が伝説を作ったのだ。
初出:ハチマルヒーロー 2016年 9月号 vol.37
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)
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