【特集:日産vsポルシェ 日産R381vsカレラ10(910)vol.2】
結果的に未完のR380Ⅱ型で敗れた第4回日本グランプリの終了から間もなくして、翌68年日本グランプリの大会規定が発表となった。第4回まではグループ6/4規定で、実質2Lクラスでの戦いとなっていたが、68年日本グランプリから排気量無制限のオープン2シーター、グループ7の参戦が可能となったのだ。
これを受けて日産は、R380に代わる大排気量マシンの開発を決定。とはいっても68年のFIA規定は、年産50台以上のグループ4でも5Lまでの排気量が認められたため、日産も当初はクローズドボディで次期車両、R381の開発を行っていた。
車両自体は特殊車両課の開発だったが、使用するエンジンの開発依頼がエンジン設計部に対してなく、結果的にCAN-AM用のシボレーエンジンを購入して使用することが判明。
これは櫻井眞一郎の独断で、結果的にエンジン設計部に話があったのは68年の日本グランプリが終了してからのことだったという。
しかし、購入したシボレーV8はテストのたびに壊れる信頼性に欠けたエジンで、開発陣の頭痛のタネだった。結局、荻窪のエンジンチームが手を入れる結果となったが、時間的な猶予が1カ月もなく、できることは限られた。
シャシーの基本骨格はR380と同じスペースフレーム。リアサスペンションの上下動とリンクして作動する可変リアスポイラーを持ち、この様子から「怪鳥」とも呼ばれた。
グランプリには北野、高橋、砂子の3台が参戦したが、高橋はハブトラブル、砂子はエンジン不調で脱落。用心を重ねて走った北野元が優勝した。
【画像8枚】1968年の日本グランプリを戦ったのは、その見た目から「怪鳥」の異名でも呼ばれたR381だった>>低く地上すれすれまで延びたリアスカート。R381が本来グループ7カーでなくグループ6/4カーであったことを示す一例だ。同時に開発期間が満足になかったことも物語っている。
>>R380での開発ノウハウが大いに役立ったと言われるR381の車両開発。モノコック全盛になりつつある時代にスペースフレーム構造を採用した。エンジンはCAN-AM用のシボレーV8、5.5L。ムーンチューンだったが荻窪が相当に手を入れる結果となっていた。
【3】へ続く初出:ノスタルジックヒーロー2018年10月号 Vol.189
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)
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