アメリカのZカーファンも日本に負けないくらい熱心で、その広い国土の各地にZカークラブがある。
それを統括するための活動をしているのが、ZCCA(Zカークラブアソシエーション)だ。
全米組織であるZCCAにおいて、ヒストリアン(歴史研究家)の肩書を持つダニエル・バンクスさんは、インターネットでの執筆などでも活躍していて、世界中のZファンの間でその名前は知られている。
わき出る興味から研究を続け、そこで得られた知識はZカーだけにとどまらず、ダットサン、ひいては自動車産業の歴史にまで及ぶ。
所属するカークラブも、メリーランド州Zクラブ、北部バージニア州Zカークラブ、そしてアメリカアンティーク自動車クラブ・チェサピーク支部と、実に活発だ。
しかしそれほどまでにZに入れ込んでいても、愛車の240Zを運転することはあまりないようなのである。そんなバンクスさんにとってZの魅力とは、一体なんなのだろう。
エンジンルームだけでなく、足回りまでピカピカのバンクスさんの240Z。
購入後の大規模なレストア作業は、エンジン関係と足回り、2回に分けて行った。知人のマクギニスさんの手によって、ネジの1本に至るまでオリジナルのものが使われている。エンジン付近の熱の影響がある部分のネジを指さして、「亜鉛クロメートの黄色が、だんだん抜けてきてるんですよ」と残念そうだった。
元オーナーの意向をくんで
今からちょうど10年前のことである。バンクスさんは、そのころ自身が目指していた完璧なレストアに耐えうるオリジナルの状態のS30 240Zを探していた。
このときに見つけた1台、ワンオーナーだった売り主は、すでにこの240Zを動かす機会も減り、賃貸だったガレージも使えなくなったうえに、子供の教育費が必要になったので、やむを得ず手放すのだと説明した。
決して安い額ではなかったのだが、バンクスさんはお互いZカーファンとしてその元オーナーに敬意を表するために、言い値で引き取ることを申し出た。
支払いする段になると、オーナーは残念で泣き出しそうな様子で書類にサインしながら、「今からでも金を引っ込めてほしいくらいだよ」と言ったそうだ。
さらにこの元オーナーの執着は、最後まですごかった。
無事に売買が成立し、後日車両を引き取るために、バンクスさんは屋根付きの積載車を手配した。
しかし、1度目に取りに行ったときには現地が小雨模様。
元オーナーはなんと、その中をわずか数メートル動かすのにも「ダメ」を出した。
バンクスさんはこのオーナーの言葉にも逆らうことはせず、日を改めて2度目でようやくクルマを引き取ることができた。
こうして引き取った車両は自宅へは向かわず、直接レストアショップへ。
レストアの依頼先は、詳細な知識と完璧なレストア技術にバンクスさんが絶対の信頼を寄せる、バンザイ・モーターワークスのマイク・マクギニスさんだった。
70年代に10年間、日産ディーラーでの経験を積んだこのメカニックの手によって、まるで出荷されたその当日のような完璧な状態が再現された。
ホワイトハウスから20km足らずの場所にあるバンザイ・モーターワークスのマイク・マクギニスさん(右)。生涯をZのレストアに捧げているような人だ。バンクスさんによれば「オーナーの気づかないようなところまでオリジナルに仕上げるレストアをする人」とのこと。テーブルの上に手書きのメモと一緒に並べられてあったのは、クルマから外してよく磨いて亜鉛クロメート処理されて新品同様になったネジやその他の部品の一群。
品質がきっかけでファンになる
もともとバンクスさんのZとの出合いは、36歳のときだった。
新しいクルマを買おうと思ったとき、アメリカ人らしくまずはシボレー・コルベットを試乗したのだそうだ。
そしてそのあとにZ32 300ZXを試乗した。すると「品質が全然違った」。
こうして手に入れた新車の300ZXは、以来メンテナンスを怠ることなく、走行距離が15万マイルを超えた今でも、新車同然の見た目のままガレージに止められている。
Zオーナーとして、バンクスさんのキャリアは決して早いスタートだったとは言えないが、愛車となった「Z」というクルマのことを知るにつれ、片山豊という日本人が、アメリカでの日本車販売の成功に大きく貢献したことを知った。
そして彼が尽力した240Zというクルマの存在を知るに至った。
なぜこんな美しいクルマができたのか。ダットサンがどうやって240Zまで至ったのか。
なぜこのクルマがアメリカで大成功を収めたのか。そしてそこにはどんな人たちがいたのか。
のめり込むようにダットサンの歴史を調べ始めた。
自宅地下室にあるバンクスさんの書斎。書籍、当時のカタログや社内報に類するもの、販売店から送られた年賀状や広告など、ダットサンに関する資料が整理されて収められている。
大きな手書きのノートを指でたどりながらダットサンの歴史を説明していくバンクスさん。長年にわたり読み続けたさまざまな資料の内容を整理して、きれいにまとめた独自の研究ノートだ。
しまってあったコレクションの一部を見せてもらった。いろいろな記念品に混じって、本が2冊。
浅野清治「ダットサン自動車取扱法」(昭和11年)と菊池洋四郎「ダットサン運転術と免許の取り方」(昭和14年)。
バンクスさんによると、当時自動車を所有できるほどの富裕層は、自分では免許を持たずに運転手を雇っていた。
だが、ダットサンという国産車の登場とともに「自分で運転する自動車」の普及に努める動きがあったのだそうだ。
これらの貴重なコレクションを入手するために、バンクスさんは知人の協力も得ながら、常にインターネットオークションに目を光らせているとのことだ。
ダットサンというブランドとクルマの成り立ちと発展、そしてアメリカ市場への挑戦。そこに浮き上がってきたのが、歴代ブルーバードで積み上げられた実績と、ダットサンの完成形としての240Zの姿であった。
「アメリカにクルマを売ろうと、自ら乗り込んできて努力したのはミスターK(片山さんのこと)だけですよ。世界の他のどのメーカーにも、あれほど熱心な人はいなかった」
240Zの成功の後、多くの日本車がアメリカに輸入されることになった。Zはダットサン510とあわせて、アメリカにおける日本車の活躍の始点ととらえられることが一般には多い。
しかしバンクスさんにとっては、ダットサンの、そしてかつてアメリカに乗り込んできた日本車すべての「完成形」に見えていたのだ。
その頂点を極めた240Zは、まさにアメリカにおける日本車の記念碑として存在していたのである。
掲載:ノスタルジックヒーロー 2012年10月号 Vol.153(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)