日本人初のル・マン24時間を制した男のレース人生 関谷正徳物語 3|トヨタがル・マン24時間優勝を果たしたが、先人たちの活躍も忘れてはならない!

1978年10月29日「富士500マイルレース」に泉水廣己と組みシビエ紫電改で出場するが、事故でマシンっを焼失する。

       

 1978年6月4日の「富士グラン250kmレース」は関谷にとって記憶に残る屈辱のレースとなった。関谷は予選19位、タイムは1分20秒40、元のドライバーの高原敬武が「つまづいたマシン」と称する紫電改(設計者はノバの森脇基恭、ボディデザイナーは由良拓也、メンテナンスは小倉明彦)をドライブする。エンジンは静マツ13B。ポールポジションは星野一義(ノバ53S BMW)。タイムは1分16秒13。2位は従野孝司(マーチ76S 13B)。タイムは1分17秒12。

 決勝の日、豪雨のためにマシンが走行すると水しぶきと水煙が巻き上がった。紫電改はクローズドボディで、エンジンにかかった水滴が水蒸気を発生し、ウインドースクリーンが曇る。曇りを取り除くウインドーベンチレーションを採用していたが機能しなかった。大きく傾いたウインドーを拭くこともできない。前方が見えなくては関谷も走れない。とうとうオレンジボール(オレンジ色の円形のある黒旗)が出される。次周にピットインし、スタッフに指示を受けなければならない。オフィシャルからスピードがあまりにも遅いので危険と判断されたのだ。関谷は40周レースで11周しか走れなかった。

 ピットに入った関谷はコクピットから降りない。なんとかレースを続けようとした。白鳥監督が危ないからやめろ、と言っても応じない。関谷のレースに対する執念があらわになった事件(?)だった。この時、白鳥監督はこの選手は伸びると確信した。

 1978年10月29日の「富士500マイルレース」。関谷は泉水廣己と組みシビエ紫電改で出場。泉水が運転中事故、マシンを焼失させる。関谷は静岡マツダでメカニックを約3年、セールスマンを約7年、合計10年間働いた。

「静岡市内の隅々まで回りクルマを一生懸命売り込みました。監督の白鳥さんには公私ともに面倒みてもらいました。最後は『会社を辞めてドライバー1本に絞るべきだ』と進言されました」

 突然、幸運な知らせが舞い込む。1980年3月30日の「富士300kmスピードレース」。元トヨタワークスドライバーでウォルターウルフの高橋晴邦監督は当初GCに桑島正美を乗せるつもりだったが、事件を起こしたため、関谷に白羽の矢をたてた。

 予選は6位で1分15秒55、マシンはウルフMCS-M。エンジンは静マツ13B。ポールポジションは星野一義で1分14秒91。マシンはノバ55S BMW。星野一義、長谷見昌弘、中嶋らはBSのソフトタイヤを選択。関谷はBSのハードタイヤを選ぶ。決勝。序盤のトップは長谷見、2位片山義美、3位藤田直広、4位中嶋、5位関谷。

 タイヤ交換のピットインが始まる。中嶋はセンターロックではないので4本のナットを締めるため大幅にタイムロス。藤田もピット作業にてこずる。10周目、長谷見、関谷、鮒子田寛、寺田陽次郎、佐藤文康のオーダーでレースが進む。関谷は42周目にピットイン。順調にタイヤを交換。49周目にトップの長谷見はピットイン。左側2本を交換、その間に関谷が長谷見を抜きトップに立つ。関谷は70周目に感激のチェッカーフラッグを受ける。2位は長谷見、3位は佐藤だった。

「チェッカーを受けたときは『やったー』という感じ。生まれて初めてのことで、なんて話していいかわからないですよ。後から考えるとこの1勝は大きかった」と関谷。


クルマ
1980年3月30日の「富士300kmスピードレース」でGC初優勝した関谷。マシンはウルフMCS-M。
エンジンは静マツ13B。


 初優勝を飾った関谷だったが、この頃静岡市内でスナック『M』を始め、マスターになった。だが、スナックは1年でやめ、マツダとドライバー契約。約2年テストを担当した。しかし、マツダワークスには序列があり、なかなかメインレースに片山や従野を押しのけて参加することはできなかった。

 GCで優勝する少し前、同じ静岡出身の星野薫と知り合いになった。関谷は静岡マツダの営業マン、星野薫はカローラ静岡の営業マン。レースではライバル関係にある2人はお互いレースをするための苦労がわかりすぎるほどわかっていた。星野薫は友達の面倒見がよく、2人は気があった。

人物



掲載:ノスタルジックヒーロー2011年8月号 Vol.146(記事の内容はすべて掲載当時のものです)

cooperation:Masanori Sekiya/関谷正徳

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