大排気量で大パワーを! 馬力競争の果てに見たビッグマシンの栄光と幻影|NISSAN the Race Vol.2

1964年の第2回大会以降、2ℓ級のプロトタイプスポーツを核に発展を遂げてきた日本グランプリは、1968年の第5回大会を迎える段階で大きな転換点を迎えていた。排気量無制限のグループ7カー規定がその中心に据えられたからだ。グランプリを制するにはより大排気量で大パワーを。これがエントラント全員の合言葉になった。

       
戦後オースチン車のノックダウンで乗用車生産のノウハウを学んできた日産には、優れたものは積極的に取り入れ、学びながら自らの血肉に変えていけばよいという思想があり、不本意ながらも頭ごなしに他社製品を拒絶する体質ではなかったようだ。

もっともシボレー製5.5L V8エンジン自体は問題児で、著しく信頼性を欠くことから、たびたび荻窪の日産ワークスチームの手を煩わせていた。

関連記事:日産のレーシングカーが7リットル級エンジン搭載も検討!? 日本グランプリからCAN-AMへ|NISSAN the Race Vol.3

 R381が純日産製となるのは68年後半のことで、5L V12のGRX-1型エンジンを搭載した。

このエンジンはR381との組み合わせのみで使われ、69年の日本グランプリを想定したR382には、GRX-1型を拡幅した6L仕様のGRX-2型と、最初から6L仕様として開発されたGRX-3型の2機種が用意されていた。


 ところで、最初期のR381はクーペボディのグループ6カーとして造られていたが、これは1967年までグループ6カーの規定が緩く、5ℓ級のエンジンでも公認取得が可能なことから、このカテゴリーが選ばれたものだった。

逆に言えば、グループ6によるR381の企画は、67年前半の段階ですでにあったと見ることもできる(これ以後の時期であれば、翌年からグループ6は3ℓ以下、グループ4は5ℓ以下で生産台数50台以上というFIAによる公示を知ることになるので、5Lエンジンによるグループ6カーの企画自体が成立しないことになる)。


 うがって考えれば、こうした経緯は日本グランプリの規定変更に関係なく、早晩2ℓプロトのR380が通用しなくなることを予測した日産の開発陣が、いつでも具体化できるプロジェクトとして考えていたもの、と言うこともできるだろう。


 その一方で、R382を初めから6Lとしたのは、日本グランプリで勝つためには6ℓの排気量が必要になると判断したためで、無意識のうちにも日産の目はアメリカへ向けられていたことになる。

というのも、6Lの排気量はすでにヨーロッパ規格からはみ出し、受け入れ可能なのはグループ7カーレース、すなわちCAN-AMだけとなっていたからだ。




規定によりウイングの装着が禁止され、ボディ本体で空力対策を施したR382のリアカウル。

コクピット回りのデザインはメーター類を集中させ視認性の向上(対R381)を考慮したものとなっている。





R382ではリア側のダウンフォースが上回っていたが、R383では前後バランスを考慮したカウル形状に変更されている。





メーターはR382よりさらに視認性を向上させたセンター配置方式に変更。





掲載:ノスタルジックヒーロー 2011年12月号 Vol.148(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

text:Akihiko Ouchi/大内明彦 photo : Masami Sato/佐藤正巳

RECOMMENDED

RELATED

RANKING