開けてしまったパンドラの箱「グループ7」。世界を夢見たビッグマシンの栄光と幻影|NISSAN the Race Vol.1

1964年の第2回大会以降、2L級のプロトタイプスポーツを核に発展を遂げてきた日本グランプリは、1968年の第5回大会を迎える段階で大きな転換点を迎えていた。排気量無制限のグループ7カー規定がその中心に据えられたからだ。グランプリを制するにはより大排気量で大パワーを。これがエントラント全員の合言葉になった。

       
年に1度の日本グランプリを軸に発展を遂げてきた日本のモーターレーシングは、1968年に大きな転換点を迎えることになる。

グランプリの車両規定にグループ7が加えられ、レース界全体がこのカテゴリーを中心に展開していくことになったからだ。

 というのは、ニッサンR380やポルシェ906のようなプロトタイプカー(グループ6)やスポーツカー(グループ4)は、エンジン排気量や生産台数、仕様や装備などに細かな規定があり、自動車メーカーの規模がないと対応できず、カテゴリーとしての普及が頭打ちとなっていたのが理由でもある。

関連記事:大排気量で大パワーを! 馬力競争の果てに見たビッグマシンの栄光と幻影|NISSAN the Race Vol.2

 一方のグループ7は、製造に関わる制約がほとんどなく、プライベートチームでもハンドリングできるカテゴリーとして設定されていたために、北米大陸でのCAN-AM(カナディアン・アメリカン)シリーズが組まれ、爆発的な普及の兆しを見せていた。

 言ってみれば、グループ6/4は車両製造に技術とコストが必要なことから、ヨーロッパメーカー向けのプロレース、グループ7は明快な車両規定と廉価な車両パッケージングから、アメリカ向けのプライベートレースととらえることができるものだった。

 それだけに、4台のR380、3台のポルシェ906を集めながら総勢9台にしかならなかった第4回日本グランプリの参戦状況は、いかに参加可能な車両が少なかったかを物語るひとつの実証例となっていた。

 しかし、この変更に真っ先に反応したのは、ほかならぬ日産、トヨタの2大メーカーだった。

日本グランプリでの優勝が、性能志向に傾く当時の自動車市場に対して大きなPR効果を持つことを知り、至上命題として日本グランプリの制覇を考えるようになっていたからだ。

こうした意味では、R380を持つ日産には一日の長があった。

新型グループ7カーの要求性能を、R380の実性能を基にシミュレーションができたからで、実際に68年の第5回日本グランプリでは5.5LのR381が優勝、2LプロトのR380が3位に食い込む健闘を見せていた。

もっとも、この2台の走りは内容的にまったく異なるもので、R381は余剰性能分で逃げ切り、R380は実力を使い切る形でチェッカーを受けていた。



 とはいうものの、優勝したR381は必ずしも所期の性能というわけではなかった。

搭載したシボレー製5.5L V8エンジンは、本来使うべき自社製5L V12が間に合わないことから代役として採用されたもので、「オール内製」を標榜するトヨタであれば、あり得ない配役だった。

逆に言えば、日産だからこそできた離れ業でもあった。





1968年第5回日本グランプリ優勝車両、北野元車(復元状態)。




日本のモーターレーシングにとって5L級の排気量は未知の領域だった。

CAN-AM用にスプリントチューンされたシボレーV8は、全負荷状態が長く続く富士スピードウェイの走行でよく壊れ、荻窪の日産ワークスチームの手により再チューニングの作業を受けていた。





R382に搭載されたエンジンは純6L仕様となるGRX-3型。




掲載:ノスタルジックヒーロー 2011年12月号 Vol.148(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

text:Akihiko Ouchi/大内明彦 photo : Masami Sato/佐藤正巳

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