ブリティッシュ・ライトウェイトの新基準をつくったオースチン・ヒーレー 2

実はBMC大衆車用コンポーネンツの集合体

 このクルマの誕生からさかのぼること6年前となる1952年。英国の民族系資本による2大自動車メーカー、「オースティン・モータース」とモーリスやMGなどのブランドを有する「ナッフィールド・オーガニゼイション」グループが合併。イギリス最大の自動車メーカー「British Motor Corporation」、いわゆる「BMC」として第一歩を踏み出した。

 一方、第二次大戦後間もない時期からスポーツカーの少量生産を開始させていたドナルド・ヒーレーは、同じ52年にオースチンのコンポーネンツを流用した2.7Lのミドル級スポーツカー「オースチン・ヒーレー100」を発表。最大の目的である北米市場を中心に大ヒットを得る。

 しかしこの時代のBMC会長、レオナード・ロード卿は「さほど裕福ではない若者にも手の届くスポーツカー」というコンセプトのもと、小型・小排気量スポーツカーの開発をヒーレーに要請。その結果として58年に発表された小型ロードスターが「オースチン・ヒーレー・スプライト」。既に同じグループに収まるMG「Tシリーズ・ミジェット」や「MGA」よりも、さらに小さなスポーツカーという新たな市場開拓を狙ったモデルである。

 実はBMCとしても初の実用化となったモノコックボディに、この時代のBMC最廉価モデルだったオースチンA35/モーリス・マイナーからパワートレーンやサスペンションなど、基本コンポーネンツの大部分を流用。水冷直列4気筒OHV948ccのBMC・Aタイプユニットのパワーは43psというささやかなものだった。

 しかし、600kgそこそこの軽量がもたらす軽快な操縦性に加えて、ライトウエイトスポーツカーの製作に豊富なノウハウを持つ、英国車ならではの本格的な造りは高く評価され、生来の目的どおり北米市場を中心に商業的成功を獲得するに至るのだ。  1961年には、ボディの前後セクションをより直線的なデザインへとモディファイ。同時に「MG」ブランドで追加設定された「ミジェット」の姉妹車と位置づけられた後継モデル「スプライトMk-II」に跡目を譲ってラインナップから去ることになる。しかし、デビューからわずか3年足らずの生産期間に4万8997台がラインオフする大ヒット作となったのは間違いない。

 加えて、デビュー後、半世紀以上を経た現在でも、カニ目の人気は相変わらず。速さだけがスポーツカーの魅力でないことを感じさせてくれることから、スポーツカーの「ブレッド&バターカー」あるいは「メートル原器」とも評されてきたのだ。

ノスタルジックヒーロー 2016年12月号 Vol.178(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

text:Hiromi Takeda/武田公実 photo:Daijiro Kori/郡 大二郎

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