ガチャンと切られた電話…。0.1秒差で逆転され2位…。 そこから「伝説」が始まった! 全日本ジムカーナ選手権で活躍したアドバンサニーと山本真宏 伝 2

決勝1本目でトップに立ち、パドックに帰ってきた。2本目に入ると別の選手が好タイムをマークして、0.1秒逆転される。そこで迎えた山本の走行。コース中間タイムはブッチギリのトップだったが、ゴール手前のパイロンに触れてペナルティーを受け、2位に終わる。負けてしまったけれど山本はうれしかった。復活を期した1年、自分にとってはよくやった結果だと思った。

 翌日、スポンサーであるヨコハマタイヤに結果を伝えるため、受話器を手にした。その瞬間、モヤっとしたすっきりしない感覚があった。前日の競技結果を説明しながら、さらにモヤモヤとした感覚があった。

 「で、トップはどこ(のタイヤ)だ?」
 と相手から聞かれ、山本は答えた。
 「ブリヂストンです」
 そう答えると「ふ〜ん」という返事。
 「お前は、そういうヤツだ ! 」

 そういうと相手は電話をガチャンと切った。ツー、ツーという受話器の音が部屋に響く。山本は頭の中が真っ白になって、その場から動けなかった。スポンサーを満足させるには勝つことしかない。2位に満足した自分を恥じた。モータースポーツのシンプルな論理が体中に染み渡っていった。

 「そこからオレはスゲエ変わったよ。まわりからは『勝つためにそこまでする必要があるの?』ともいわれた。だけど、お金をもらって走るプロドライバーとはそういうものだと、痛いほど気付かされた。スポンサーからのこの言葉がなかったら、通算11回のチャンピオン獲得はなかったと思う」

 翌86年にB310サニーで2回目のチャンピオンを獲得し、AW11 MR2に乗り換える。バブルの風が吹き始めるのと時を同じくしてチャンピオンの回数を重ね、その後ジムカーナ専用設計のフォーミュラマシンを製作。2001年に45歳で引退するまで、プロとしてチームアドバンを代表するドライバーとして、常にジムカーナ界を引っ張り続けた。



93年11月3日、JAFカップ・ジムカーナでのひとコマ。山本(左)は本戦で中矢(右)に惜敗。悔しさ余って中矢のマシンを占拠したが、笑顔で和解の握手。

 「サニーには勝負ということを学ばせてもらったね。それと夢がいっぱい詰まっていた。イモ虫がサナギになって羽化する時、自分がどんなチョウになるかなんて考えちゃいない。自分がプロドライバーとしてやっていけるかどうか? そんな事に一喜一憂しながら、毎日ハツラツとして生きていた。今思えばそんな時期だった気がするよ」

 山本とサニーが過ごした時間。競技車を前にすると、人の歴史が鮮明に甦る。そんなことも旧車の楽しみのひとつとして、あってもいいのではないかと思う。(文中敬称略)

ノスタルジックヒーロー Vol.145 2011年6月号(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

text:Kato Takuya/加藤卓哉 photo:Isao Yatsui/谷井 功

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