山本真宏という名前をご存じだろうか? 全日本ジムカーナ選手権で活躍したアドバンサニーと山本真宏 伝 1

山本選手が当時使っていたSHOEI製ヘルメット。

山本真宏という名前をご存じだろうか?

 今回紹介したB310アドバンサニーを駆り、1986年全日本ジムカーナ選手権のDクラスチャンピオンを獲得。20年を超える選手キャリアの中で、11回の栄冠を獲得したプロドライバーだ。

 56年7月17日、神奈川県横須賀市にある山本家の三男として生を受けた山本。小学生の頃、家にあった白黒テレビから流れてきた映像の記憶がある。浅岡重輝や生沢徹など、その後、日本GPなど草創期の国内モータースポーツで何度もその名を聞くことになるドライバーたち。彼らが大磯ロングビーチの駐車場にパイロンを置き、クルマで走り回っているという「ジムカーナ」の映像だ。

こんなモノがあるんだ、という記憶だけが残っているよね」と山本は当時を振り返る。

 運転免許を取得後、兄からジェミニを譲り受けた。 人一倍負けん気の強かった山本は、ジェミニで当然のようにラリーへ参戦。しかしまわりは、ツインカムエンジンにソレックスやウエーバーを付けたTE27レビン&トレノやB110サニーばかり。公道を使用するラリー競技は、車検の関係もあって改造範囲が厳しく規制されていた。
かっこいいクルマに乗りたいと思ったら、ナンバーを切った改造車しかなかった。それで走れるところといったら、クローズド(私有地など公道以外の場所)でやるジムカーナやダートトライアルだけだったからね」


プロのジムカーナ・ドライバーとして活躍していた山本。写真は当時、永井電子機器の広告に使われたもの。 ⓒ Nagai Electronic Inst. Co., Ltd.

 自分でメンテナンスしたクルマをドライブする。自らが汗と油にまみれながら、山本はジムカーナで着実に結果を残し始めた。ジェミニは速さを突き詰めた競技車となり、ヨコハマタイヤがスポンサーをかって出てくれたことで、イメージカラーである赤と黒のアドバンカラーのボディになった。だがライバルたちとの埋まらないパワー差。要領良くコースを走り切る方法はないか?
 当時山本は常に自問自答していた。そして82年、夢にまで見た初めての全日本チャンピオンを獲得。一つの区切りとともにB310サニーへの乗り換えを決意する。

 新しいクルマに乗りたいということもあったから、310サニーを選んだ。110サニーは競技車として実績もあったけれど過去のクルマ。『今さら110かよ?』っていう気持ちが強かった。実際に310に乗ってみたら、速くてコンパクトで扱いやすかった。とにかくコイツを100%乗りこなしたいっていう気持ちのほうが強かったね」と山本。

 ジェミニで培ったドライビング技術。ライバルたちとのパワー差がなくなった途端、敵がいなくなった。関東地区戦で連戦連勝。負ける気は全くしないどころか「オレに勝ちたかったら4本(編注:通常は2回走行)走らせてやるよ」と豪語するほど自信があった。

 気合満々で臨んだ、83年鈴鹿サーキットでの全日本戦。だが決勝前日の練習走行で山本のサニーはストップしてしまう。その時、パドックで見ず知らずの選手が話しかけてきた。

「どうしたん?」
「フライホイール飛ばしちまってさ」
「分かった、じゃ乗れや」

 短い会話の後、ふたりは鈴鹿にあるクルマ屋をくまなく回り、パーツを探し出した。その男こそが、山本のジムカーナ人生の中で終生のライバルとなる中矢雅章だった。

 「中矢には、人間としてもドライバーとしてもかなわないと思ったよ。同じDクラスで走ってるんだぜ。なのにこんなに気持ちのいい真っ向勝負ができるんだから」

 この年の全日本Dクラスチャンピオンは中矢が獲得。山本は5位に終わった。

 翌84年はプライベートな理由もあり全日本戦参戦をあきらめた。1年のブランクをおいた山本は85年に復活を期す。関東地区戦はもちろんトップで通過。そして全日本戦の会場となるスポーツランドSUGOに駒を進めた。

ノスタルジックヒーロー Vol.145 2011年6月号(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

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text:Kato Takuya/加藤卓哉 photo:Isao Yatsui/谷井 功

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