いま道、混んでる?〈クルマと歩んだ歴史ストーリー〉人間味ある情報を伝えてきた「日本道路交通情報センター」|故にクルマは進化した

大きな日本地図を前に各地の道路情報を集める道路交通センター九段センターの様子。創業当時はこのような簡素な地図で、情報が自動的に表示されることもなかった。各員の確認のために使われた。

カーナビに渋滞情報が表示されるようになった今も、リアルタイムの道路情報といったらやっぱりラジオだ。

時報前や30分の区切り前、朝は10分おきぐらいに放送される道路情報は貴重な情報源であるし、渋滞情報だけでなくさまざまな季節の状況などが織り込まれているのも楽しい。


 この道路情報、すでに昭和30年代終盤からローカルレベルの放送は行われていたようだが、全国を網羅する形での放送が始まったのは1970年(昭和45年)のこと。

その年に設立された財団法人・日本道路交通情報センター(JARTIC=ジャパン・ロードトラフィック・インフォメーションセンター)が閣議決定され、その役割を担うことになる。

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日本道路交通センター ラジオ放送ブース
ラジオ放送用にブースが設けられた名古屋センター。

窓越しに情報を見ながら放送を行っている。


「68年8月に岐阜県の飛騨川に観光バスが転落する事故がありました。

そのとき、集中豪雨の情報をバスに伝えられずに悲劇を招いたことがセンター設立の契機となっています。

それまでも、東京オリンピックの頃から道路情報はラジオで流されていましたが、やはり全国の道路と交通の情報を一元的に提供する機関が必要となり、設立に至ったわけです」
 こう語るのはJARTIC調査部の栗原義明さんだ。

栗原さんはJARTICが設立された翌年の71年に入社し、始まったばかりの道路情報のアナウンスも担当していた。



人物 栗原義明
センターとともに歩み、情報アナウンスの基礎を開拓したといえる調査部専門役の栗原義明さん。




「70年の3月に東京の九段センターと霞が関センター、大阪センターで業務を開始し、71年1月には名古屋センター、3月には福岡センターが加わっています。

事故情報や渋滞情報は警察が持っており、それをベースに短時間で情報を流す形でしたが、それだけでは細かい情報まで手に入りませんから、あとは我々が『取材』するわけです。

各地の交番やガソリンスタンド、高速道路の料金所、峠の茶店などに電話をして天候や道路状況を聞くわけですが、ひと口に道路状況といっても、人それぞれに見方は違いますから、いかに主観を取り除いた情報をいただくか、苦労しましたね」

 道路情報のアナウンスというと、目の前に大きな道路情報板(管制板)があって、それを見ながらアナウンスしているように思うが、当時は完全なアナログ状態だったわけだ。

だが電話で道路状況を聞くにしても、相手が素人ゆえに、誰にでも分かるような状況で説明してもらうことは難しい。

日本道路交通情報センター 神戸センター
情報収集、ドライバーからの問い合わせと、以前は電話が大活躍していた。

写真は神戸センター。



渋滞情報オンライン化
渋滞情報のオンライン化が始まると、集められた情報を即座に端末に入力し、高速道路などでドライバーが目にすることが可能な状態にしてくれる。


「たとえば積雪ありといっても、人によって基準が違いますので、道が白くなった程度なのか、それとも靴が埋まるぐらいなのか、具体的な状況が分かるように聞かなければなりません。

そのあたりは経験というか取材力が必要で、大変でしたが面白い部分でもありました。

それと、短時間の道路情報とはいえ、やはりドライバーの気持ちになった放送も必要なんですね。

渋滞情報だけでなく、『今、この方向に走っているドライバーは朝日が眩しいはず』とか、『今、この地域は桜が咲いているはず』といった情報を交えながら放送することも心がけていました」

 たしかに明け方や夕暮れだったり、雨が降っていたり晴れていたりと、ドライバーの視界や気分は周囲の状況に左右されがちだ。

わずかな時間の放送だが、そこに織り込まれた渋滞や事故以外の情報に、ドライバーが癒やされることもある。


「私自身は学生時代に運送トラックの助手のアルバイトをやっていて、それが特にトラックドライバーの気持ちを知るという点では生きたようです」
 秒単位のわずかな時間で、できるだけ多くの情報を流さなければならないという技術も必要となる道路情報。

そのあたりの苦労もあるのだろう。


「今でもアナウンサーが道路情報を読み上げる局もありますが、我々は道路情報のオーソリティとして教育されてきた強みがあります。

わずかな時間の放送ですが、私が教育する立場となったときも『その時期、月、日、天候に応じた交通情報を流すように』と教えていました。

たとえば毎月5日、10日、月末は渋滞が増える傾向がありますし、天候の変化などに応じて臨機応変に情報を選ぶ必要もあります。

我々の評価はしゃべりのうまさではなくて、欲しがっている人にいかにいい情報を与えるか、というところにあるんですね。

事故と渋滞が、必ずしもリンクしていないこともありますし、いかに有用な情報にしていくかは経験しかないと思います」

 たしかに、妙に感情のこもったパーソナリティのしゃべりより、運転中は淡々と抑えた道路情報の声のほうがスッと耳に入ってくることもある。


「あまり情報を伝え過ぎずに、ある程度はドライバーの方に判断を任せる部分もあります。

たとえば横転事故でもタンクローリーの横転と、2輪車の横転では、その後の渋滞状況なども変わってきます。

そこで我々は事実を伝えるだけにして、あとはドライバーの判断に任せるようにします。

そういった判断も必要ですね」

 栗原さんの入社した当時は、まだ道路情報自体が黎明期であったはずだが、人材はどういった形で集めていたのだろうか。


「やはりアナウンサー技術を持った人や、そういった志向を持つ人を採用していたようです。

私の頃は原稿らしきものもなく、メモだけで放送していましたし、そのメモも他人が見ても何が書いてあるか分からないようなモノでしたね(笑)。

鉄道時計とにらめっこで放送していましたが、数字で出るデジタル時計より、アナログの鉄道時計のほうが時間を量的に判断できるのでやりやすいんですよ。

それと、よくTVなどに映る大きな交通情報板、我々は管制板とかグラパネと呼んでますが、その管制板のウソを見抜け、ともいわれましたね。

路上の測定器(光ビーコンなど)でクルマの通過台数を測定した結果が、管制板に表示されますが、その測定器の下にクルマが駐車したりすると、クルマがずっと動いていないと判断して、渋滞表示となってしまうんです。

そういった場合も周囲の状況などを判断して、誤判断を見抜く必要があるわけです」

日本道路交通情報センター テレビスタジオ
テレビでの交通情報放送も始まり、センター内にスタジオを作って対応。

始まって間もない頃のスタジオに、時計や渋滞情報のプレートが見える。


短時間の放送だけにたやすく感じる道路情報だが、情報を伝えるだけでなく、瞬時に周囲の道路状況を判断したり、季節感を出したりと、けっこう大変な仕事なのだ。


「でも、楽しいことも多かったですよ。

70年代は深夜放送の時間にもトラックドライバー向けなどに道路情報を流しており、週3日はセンターに泊まり込んで放送していたのですが、当時のオールナイトニッポンの亀渕昭信さんとか斉藤安弘さんとか、交流もさせていただきましたし、私にアダ名がつけられたこともあります。

仕事は大変でしたけど、いい思い出です」

 携帯電話やインターネットの普及で放送量自体は以前ほど多くないラジオの道路情報だが、どこでも聞くことができ、さらに30年以上を経てブラッシュアップされた内容にはやはり味がある。

今一度、ラジオのスイッチを入れて、淡々と抑えた口調で、情報を確実に伝えてくれる声に耳を傾けてみるのも悪くないだろう。


掲載:ノスタルジックヒーロー 2009年6月号 Vol.133(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

text:Osamu Tabata/田畑 修

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