零戦に採用されたオレオがルーツ!? 一人の発明家が残した偉大なアイデア「ショックアブソーバー」 KYB

今はもう生産終了となってしまったが、この油圧ジャッキもKYBの名を世間に知らしめた。車載ジャッキとして長い間愛用され、お世話になった人は数知れず。

ショックアブソーバー

現在も豊富なラインナップをそろえ、モータースポーツからストリートまで幅広く愛用されているSRスペシャル。


 自動車には欠かせないパーツながら、長い間「縁の下の力持ち」的な存在として日の目を見なかったショックアブソーバー。日本におけるブランドというとKYB(カヤバ)を挙げる人も少なくないはずだ。自分のクルマのショックアブソーバーの交換など、まだ一部の人しかやらなかった時代から自社ブランドを立ち上げ、パンフレットなどを制作、ショックアブソーバーの重要性を説いてきたが、そのルーツをたどるとさらに興味深い内容が見えてきた。

 KYBの前身である萱場工業の創業は大正年代までさかのぼる。今はウオーターフロントと呼ばれる東京市芝区日之出町(現在の港区海岸2丁目)に、萱場資郎氏が萱場発明研究所を創業したのは1919年(大正8年)のことだ。27年(昭和2年)には萱場製作所へ発展させ、「オレオ」と呼ばれる海軍機用油圧緩衝脚を受注。そこから飛行機用の油圧部品を開発・生産するようになり、37年にはオレオの統一規格が陸海軍制式として採用されている。

 戦闘機の傑作ともいわれた零戦(零式艦上戦闘機)にもこのオレオが採用され、後に松山沖の瀬戸内海で引き揚げられた零戦の脚は、海底に約30年間沈んでいたにもかかわらず、ショックアブソーバーの内筒部分に当たる摺動部は錆びるどころかピカピカのままで、引き揚げた当時は作動させることもできたという。この引き揚げられた零戦の脚オレオは、神奈川県にあるKYB史料館に展示され、一般の人も見ることができる。

零戦用ショックアブソーバー
KYB史料館に展示されている零戦のオレオ。松山沖の海底に30年以上沈んでいたにもかかわらず、原形をしっかり留めるとともに摺動部にはサビひとつない。

 41年にはオートジャイロの試作機を飛行させるなど、航空分野にも進出し、一方で44年には軍需会社に指定されて45年4月には萱場航空兵器と社名を変え、さらに8月には萱場産業へ変更。戦時中の混乱に翻弄される形となっていたが間もなく終戦。46年にはGHQから工場の賠償接収命令を受けるが3カ月後には解除され、その年には自動車用ショックアブソーバーの試作受注を始めている。

カヤバオートジャイロ
戦時中の1943(昭和18)年に90機が生産され(注文は303機)、50機が実際に使用されたカヤバオートジャイロ。偵察や対潜哨戒などに使われたという。


 このショックアブソーバーの試作開始の逸話も面白い。この46年に創業者の資郎氏が住んでいたアパートの2階に、日産自動車の前身である日産重工業の役員であったウイリアム・R・ゴーハム氏が引っ越してきたところから話は始まる。ここでエンジニア同士、意気投合して技術的な議論が交わされ、やがてオレオの技術が自動車用のショックアブソーバーにも生かせるのではないかとなって試作を開始している。そして翌47年には当時のトヨタ自動車工業ともサスペンションの共同研究を開始し、間もなく量産を開始。48年には国の特別調達庁からジープ用のショックアブソーバー4000本を受注し、この年の11月に萱場工業という社名で新たに会社体制を整えている。


人物 萱場資郎 KYB本社工場
日本の油圧機器のパイオニアとなった創業者の萱場資郎氏(左)と、かつて芝区芝浦一丁目1番地に建設された工場。現在、ここには東芝の本社ビルが建っている。


 自動車メーカーとの関係も進展し、55年には国産乗用車におけるショックアブソーバーのシェアはカヤバだけで75%に達し、ショックアブソーバーのカヤバという地位を確立。ショックアブソーバーに関しては自動車メーカー自体も開発・生産しており、さらにメーカー系の部品メーカーも手がけていたが、そんな中で独立系ともいえる萱場工業がシェアを広げていったのは、やはりそれだけ製品の信頼性が高かったためだろう。ただ、メーカーにとっては部品メーカーという認識なのか、サスペンション全体の設計図を基にショックアブソーバーの設計をするのではなく、メーカーからの指示(寸法、減衰力、ストロークなど)をもとに製品を作り、それを納入する形が取られていたという。だが、それではコミュニケーション上のロスもあり、最近は自動車メーカーのテストコースなども訪れて開発に携わっている。

KYBカタログ
ショックアブソーバーの重要性を明記したパンフレットも早い時期から制作。その内面には「あなたの健康と車を守る」という文言も。


 カヤバというと国際ラリーなどモータースポーツでの活躍も目ざましいものがあるが、萱場工業の設計部にモータースポーツ専門の部署が設けられ、担当エンジニアが現場に赴いて開発に携わっている。そこで得たノウハウが量産品へもフィードバックされ、耐久性向上といった性能向上に生かされていることは言うまでもない。

 話は変わるが現在も多くのKYBブランドのコンクリートミキサーが走り回っているが、萱場工業が初めてミキサー車を製作して世に出したのは53年となっている。前号で紹介したイワキ・コンクリート(現在の東京エス・オー・シー)が国産初のミキサー車を製作した約1年後だが、その後萱場工業製がシェアを拡大。今も生産は続けられており、回転胴内のスパイラル構造部分は、今でも職人による手作業の溶接で作られているという。

 そして56年には現在のKYBエンジニアリング・アンド・サービス(KYB E.S)の前身である萱場オートサービスを設立。当初はショックアブソーバーに限らず、萱場工業で製作した製品の品質保証、アフターサービスを含めたサービスを行う目的で設立されたが、その後は製品をさまざまな方向へ販売する商社的な業務を担当するようになる。

 63年には四輪車用ショックアブソーバーの生産・販売累計が1000万本を超え、65年には「KYB」のブランドマークも制定。67年にはストラット形ショックアブソーバーの量産化を開始し、69年にはフランスのド・カルボン社とガス封入式ショックアブソーバーに関して技術提携を結んでいる。そして70年にはイギリスのアームストロング社と減衰力調整式ショックアブソーバーおよび車高調整装置に関する技術提携を結ぶなど、60年代終盤には新たな時代に向けた技術を確立。73年にはガス封入式の減衰力調整式ショックアブソーバーを開発し、74年にはチューニング用ショックアブソーバーとして多くの人に愛用されるカートリッジ式のショックアブソーバーの量産化に踏み切っている。78年には今も続く独自ブランドのRSスペシャルをリリースし、その流れは最新のNEW RSスペシャルやリアルスポーツダンパーへと受け継がれている。
 純正のシェルケースを生かして減衰力の向上が図れるカートリッジタイプは、足回りを強化したいと考えるユーザーの強い味方となるが、KYBのすごいところは、すでに自動車メーカーでさえ部品生産を止めてしまったクルマのショックアブソーバーを、今も生産し続けているところだ。特別に旧車用として生産しているわけでもなく、ニーズがあれば生産し続けていくという姿勢は旧車ユーザーにとっては嬉しい限りだ。もちろん、品質と信頼性は最新のショックアブソーバーと変わらず、耐久性も向上している。そうした製品をリリースし続けてくれる、トップメーカーならではのマインドに、敬意を表したい。


KYB史料館
相模工場内に併設されたKYB史料館では70年を超えるKYBの歴史と幅広い技術分野を楽しみながら見学できる。なお、現在は一般公開を休止している。




掲載:ノスタルジックヒーロー 2009年2月号 Vol.131(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)






text:Osamu Tabata/田畑 修

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