道路作りに欠かせない「生コンを運ぶ国産ミキサー車」の第一号は1952年に登場! クルマとともに歴史の第一歩を歩み始めた物や事柄を追う

1951年に竣工した磐城コンクリート工業の池袋工場。コンクリートを作る際、各材料を個別計量できる設備を備えた施設としては国内初のプラントだった。

都心部の道、郊外の幹線道路を問わずクルマを走らせると1度は行き合うコンクリート・ミキサー車。それだけ多く頻繁に走り回っているわけだが、今も需要の絶えないミキサー車が日本で初めて造られたのは1952年(昭和27年)のこと。今は大手の車体メーカーや架装メーカーが生産を手がけているが、国産第1号車は自動車関連メーカーではなく、なんと生コンクリート製造会社が世に出している。
 そのコンクリート製造会社である磐城コンクリート工業、現在の東京エスオーシー株式会社は、ミキサー車だけでなく、生コンクリート製造に関しても日本初であり、高度成長時代の東京の街づくりに大きく貢献してきた。まずはミキサー車が世に出る前、苦労した時期の話からうかがってみよう。

人物 東京エスオーシー株式会社取締役生産管理部長 岡野光
東京エスオーシー株式会社、取締役生産管理部長(取材当時)・岡野光さん。長年、デリケートな生コンクリートを扱ってきたスペシャリスト。


「当社が日本初の生コン工場を東京・墨田区の業平橋に建設し、稼動を始めたのは49年(昭和24年)のことですが、当時はまだダンプトラックも手に入らない時代で、生コンの運搬にはフォード製の中古トラックを使っていたようです。荷台にタテ方向にレールを敷き、その上に1立方mの鉄製の箱を置いて中に生コンを入れて運び、現場ではその箱を荷台後端まで滑らして急停止させて、生コンだけを流れ出させるんですね。でも、生コンは運搬中に水とコンクリートに分離してしまっており、最初に流れ出るのは水ばかりで肝心のコンクリートはスコップで掻きだす必要があったようです」
 東京エスオーシー・取締役生産管理部長の岡野光さんは当時の状況をこう説明してくれたが、生コンの『分離』と『運搬』にはかなり頭を悩ませたようだ。


「ミキサー車が胴を回しながら走っているのは、実は『固まらせないため』ではなく『分離させないため』なのです。コンクリートは化学反応で固まりますから、回していてもいずれは固まります。それより、まずは現場まで分離させずに運ぶことが重要なんです」
 その後ダンプトラックが普及し始め、生コンもダンプで運んで荷台を上げて流れ出させる方法をとるようになるが、それでも荷台には分離した生コンが残り、人力で掻き取らなければならなかったという。この生コン運搬用ダンプトラックの写真を見ると、運搬中に生コンがこぼれ出ないようにと、アオリが内側へ張り出した独特の形状が興味を引く。
 そして次はこのダンプトラックが生コン専用に改良され、攪拌機能付きのダンプが登場する。
「ようやくダンプトラックを使えるようになってからも、運搬中にコンクリートと水が分離してしまい、現場で荷台を上げて流れ出させても、どうしても生コンが残ってしまうんですね。それで今度は荷台にタテ方向に心棒を通して、それに羽根をつけて油圧で半円形に攪拌しながら運ぶアジテータ・ダンプトラックを共同開発しています。これなら分離をある程度防ぎながら現場まで生コンを運ぶことができますから」

コンクリートミキサー車
国産初の52年式傾胴式トラックアジテータ車。キャビン後方にあるミキサー動力伝達部分を大きな箱のようなモノで隠しているのが分かる。


 英語で攪拌機(かくはんき)を意味するアジテータという名を冠したこの油圧強制攪拌式ダンプは、50年頃から始まった地下鉄丸の内線の工事で大活躍したというが、なにより分離を防ぐのが品質確保の大前提であり、そのための工夫だったといえるだろう。
「業平橋に日本初の工場を作り、そこで質の高い生コンを製造できるようになりましたが、運ぶ途中で分離してしまっては品質の確保も難しくなります。そこでさまざまな運搬方法を考えて、現在のような傾胴式アジテータ車を開発することになったのだと思います」

 こうして、今は当たり前になったミキサー車(傾胴式アジテータ車)の開発に取り組み、犬塚製作所というボディメーカーと磐城コンクリートの共同開発という形で完成にこぎ着ける。これが52年(昭和27年)のことであり、国産初のミキサー車の誕生だった。すでにアメリカなどでは傾胴式アジテータ車が実用化されていたというが、今と違っておいそれと輸入できる時代ではなく、自社開発することになったようだ。ちなみに、磐城コンクリート工業はその後、東協生コン、東京スミセ生コンと名称を変え、現在の東京エスオーシーに至っている。

「傾胴式アジテータ車は回転する胴の中を巻き貝のような構造として、回しながら運搬し、現場では逆回転させてコンクリートを排出します。写真でも分かるように、当初は開発に苦労した動力伝達部分の構造のノウハウを盗まれないように、大きめの側板で隠しているんですよ」
 こうして日本初のミキサー車は東京の地下鉄やビル建設で大活躍し、都市の発展に欠かせないものとなっていく。セメント、砂、砂利、水を厳密に計量し、最適の配合比率で生産された生コンを、品質を落とすことなく運べるようになり、それが建設物のクオリティ向上に大きく貢献するわけだ。

 ところで、今も生コンクリート工場は東京都内でも住宅地の中とか、都市部に数多く見られる。やはりそれだけ需要があるということだろうか?
「生コンについては、JISマーク表示の認証を受けた工場から基準に適合した製品を供給する事がわれわれの使命ですし、運搬時間も通常の場合、工場での練り混ぜ開始から現場の荷卸しまで90分を限度とするむね、JISの基準に定められています。『生』と呼ばれる通り、そんなに時間をかけて運ぶわけにもいかないのです。それで道路事情の悪い都市部には数多くの工場があるのだと思います」

コンクリート運搬車
磐城コンクリート工業で開発された51年式の攪拌(かくはん)機能付きトラック。生コン輸送専用ダンプトラックで油圧式で生コンを流し出す仕組み。荷台のセンターに攪拌用の棒が通っていて、その周りに攪拌用の翼が付く。

 東京エスオーシーは、磐城コンクリート時代の49年にまず業平橋工場を建設し、51年には池袋工場が竣工している。当時はまだ都心の周縁地域だったとはいえ、運搬には都合のいい場所だ。なお、この2工場は今はなくなっているが、港区の港南にさらに規模の大きい芝浦工場を稼働させている。
「業平橋工場は東武鉄道の業平橋駅構内に建てられましたが、これは栃木県の葛生にセメント工場があり、そこから東武鉄道で材料を運ぶのに都合がいいということで場所が決まったようです。その3年後には今の北池袋に2番目の工場を作ってますが、これも丸の内線などの地下鉄工事に都合のいい場所、という考えがあったと思われます」

 冒頭で説明したように、業平橋工場は生コンクリート工場では日本初のものであり、ここで49年11月15日に試運転が開始されたことから、業界では11月15日を生コン記念日としている。また、工場創業50周年となった99年には超高強度コンクリートで製作した高さ1.8mの記念碑を敷地内に設置。この記念碑には日本初のミキサー車となった傾胴式アジテータ車が彫り込まれている。

生コンクリート工場発祥の地記念碑
業平橋工場に設置されていた「生コンクリート工場発祥の地」記念碑。


 ところが、業平橋工場は新たに計画された新東京タワーの敷地にかかっており、そのため2007年10月をもって操業を終了。すでに閉鎖され、その地では新東京タワー建設に向けての工事が始まっている。記念碑は一時退避ということで他の工場に保管されているが、新東京タワーが完成したあかつきには、再び日本初の生コン発祥の地に戻され、設置される約束となっている。
 新東京タワーが完成すれば内外を問わず多くの人がその地を訪れるだろうが、片隅に置かれるであろう生コン記念碑の存在にもぜひ気づいてほしいものだ。


掲載:ノスタルジックヒーロー 2008年12月号 Vol.130(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

text:Osamu Tabata/田畑 修

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