クルマにまつわるはじめて物語 「近代クルマ文化の礎を築いたカークラブの存在」クルマとともに歴史の第一歩を歩み始めた物や事柄を追う1

JMCの名を全国に轟かせた日本アルペンラリーのシーン。岐阜県の乗鞍岳の登り道でデッドヒートしている。

自動車のオーナー団体というと、今はJAF(日本自動車連盟)がその代表格となる。しかしそれ以前にも規模が小さくないオーナー団体が存在していた。JAF創立の約3年前、1959年(昭和34年)に、JMC(日本モータリストクラブ)と名付けられたオーナードライバー団体が誕生しており、最盛期は5万人を超える会員を集めて活動している。戦前にはNARC(日本自動車競走倶楽部)、戦後になってSCCJ(日本スポーツカークラブ)やJAA(日本自動車協会)が設立されているが、多くの一般オーナーに門戸を開いた団体としてはJMCが最初と見てもいいだろう。

人物 澁谷道尚
澁谷道尚(しぶや みちたか)さん
1935年広島県生まれ。日刊自動車新聞社に入社後、日本モータリストクラブ(JMC)でラリーのオーガナイズなどを手がけ、後に代表も務める。日本アルペンラリーをはじめ数多くのラリーの競技長を務め、86年には自らハンドルを握って香港-北京ラリーに参戦。70歳を超えた現在もJAF全日本ラリー選手権・審査委員グループのリーダーとして全国を駆け回っている。


 かつてJMC代表を務めた澁谷道尚さんに、発足から当時の活動状況など、JMCに関することを回想していただいた。
「当時、日刊自動車新聞が日曜版というのを発行していまして、最初はそれで会員を募集する形をとったと記憶しています。新しい自動車クラブを作ろうと発案したのも、当時の日刊自動車新聞社の社長だった木村正文氏でした」
事業のひとつとしてJMCを立ち上げた日刊自動車新聞は、75年以上の歴史を誇る自動車専門新聞。同社が資金を負担する形でスタートしている。また、澁谷さんの名前とJMCと聞くと、日本アルペンラリーを思い浮かべる人も少なくないだろう。

「日本アルペンラリーの第1回も1959年7月に開催していますが、一方で本格的なラリーとはあまり縁のないような方々もJMCの会員になっていただいていました。何台も連ねたコンボイで温泉ドライブ会とか、自動車メーカーやタイヤメーカーの工場見学とか、スキードライブ、オートキャンプ、海水浴とかいろいろ行きましたね。トヨタの工場見学に行ったときは、蒲郡温泉の旅館を借り切り東京から100台以上のクルマをコンボイで連ねて行きました。携帯電話どころか公衆電話さえあまりない時代ですから、長く連なるクルマの列を管理するのは大変でした」

自動車
スピードを競うレースとは違った「団地ラリー」も開催。ファミリーでも楽しめるようにと、さまざまなアイデアでイベントをオーガナイズしていた。

オートキャンプ
現代のキャンプサイトまでクルマを乗り入れられるオートキャンプとはちょっと違うし、キャンプ道具も時代を感じさせるオートキャンプの光景。


 JMCの初ドライブ会は京都の保津川下りの観光ドライブだったというが、100台を超える参加者全員が東京から京都まで1日で走りきったという。高速道路が完備した今ならどうってことはないが、まだ未舗装路の残る国道1号線を1日で500km、それも当時のクルマで走り切るというのは並大抵ではない。
「クルマが故障するのも珍しくない時代でしたし、それだけにJMCのドライブ会なら安心というのもあったと思います。クルマの走り方の知識が未熟な人も少なくなくて、一度は海水浴ドライブで砂浜に乗り入れて動けなくなってしまい、潮が満ちてきてあわや水没か、なんてこともありましたね」



自動車工場見学 パルクフェルメ
ドライブ会とはいえ東京から京都まで未舗装の国道を1日で走ってしまうハードさ。それでもたくさんの人が参加した。そして工場見学会も大人気だった。自動車メーカーやタイヤメーカー、さらに子供の喜ぶお菓子工場の見学会も開催された。


 多くのクルマ好きの人がこぞって参加し、JMCのドライブ旅行を楽しんだ。ただ、中にはこんな人も……。
「工場見学のとき、明らかに他の参加者と違う雰囲気の人がいたこともありました。今思うと、ライバルメーカーの社員が工場の状況を探るために参加していたようですが、JMCとしては自動車メーカーの社員とはいえ、オーナーであれば入会も参加も断るわけにいきませんし、致し方なかったですね」
 産業スパイというほどではなかったのだろうが、今ほど簡単に工場見学に行ったりすることができない時代だけに、JMC会員となって敵情視察を考えたとしても不思議ではない。

 また、ドライブ会では整備工場にお願いして、最後尾にプロのメカニックとサービスカーを走らせていた。50年代のクルマが何台も、それも未舗装路を延々と走るのだから、こういったサービスも不可欠だったのだろう。
「でも何回かやるうちに、ドライブ会のサービスを当てにして自分のクルマをちゃんと整備しないで参加するような人も出てきてしまったんですよ。ドライブ会に行けばタダで直してもらえる、と思っていたんでしょう」
 もちろん参加者のクルマにトラブルが発生したらサービスしなければならない。かといって高額な整備料金を取るわけにもいかず、協力してくれた整備工場の持ち出しになったり、JMC側が負担するような形だったという。
 当時、マイカーで遊びに行けるような人はそれなりにお金持ちだったはずだが、それでもドライブ会などの参加費用はそう高くなく、1963年の「夏の避暑ドライブ」は1泊2日で参加費は会員1000円、準会員1500円としていた。当時の大卒初任給が2万円程度なので、今の1万~1万5000円程度だったとみていいだろう。


「1963年の5月には東京・芝の東京タワーの下あたりにクラブハウスをオープンさせています。1階ロビーではコーヒーなどを飲めるようにして、2階のミーティングルームでは会合だけでなく映画の上映もできたんですよ。ロビーには新車のカタログなども置いていて、誰でも最新の情報が手に入るようにしていましたし、自動車メーカーもPRの場として利用していたと思います。それとクルマとはあまり関係ないんですが、カードゲームのコントラクト・ブリッジの講座やトーナメント大会も開くようになって、そこには外国人もよく来ていましたね」
 と澁谷道尚さんが語るように何とも洒落た雰囲気のクラブハウスだったようだ。

クラブハウス
63年にオープンしたJMCのクラブハウス。ソファが並べられて新聞や雑誌、新車のカタログも完備。2階では映画の上映やコントラクト・ブリッジ講習も開かれ、国際的な雰囲気もあったという。


 1963年頃のJMC会報を見ると、本格的なラリーを月1回、誰でも走れるスカベンジャーラリーを月1回、それとゴルフドライブに観梅ドライブ、夏は10日間の北海道ドライブ、自動車やお菓子の工場見学、さらにジムカーナ開催とイベントが盛りだくさん。クルマでできる遊びはなんでもやっていた感じだ。

JCM クラブ会報

59年のJMC創立時からグラビアページを交じえた会報を発行。クルマでのパン食い競走が表紙というのもスゴイ。当時としては実にぜいたくな遊びだったはずだ。創立5年目の64年時点でJMCの会員数は1万人を超えている。多くの人がJMC「クルマを使った遊び」を楽しんでいたわけだ。

JCMドライブコース
全国のドライブコースを掲載したガイドブックも発行。ラリー・オーガナイズの実績を生かして、交差点ごとのコマ図をつけ、道に迷わないように親切にガイドしている。このコース図の更新も澁谷さんが担当し、全国を走り回ってなかなか家に帰れない日々が続いたという。


「その頂点に年1回の日本アルペンラリーがあったわけです。当時、私はそのアルペンラリーをはじめとするラリーのコース設定に加え、ドライブ会や工場見学の世話役、ジムカーナのオフィシャルまでやっていて、ほとんど家には帰れないような状態でしたね」
 そういったイベントを載せる会報もなかなか立派なもので、写真をふんだんに使った「日本のモータリスト」は自動車雑誌並みの体裁を整えていた。これだけ運営のしっかりした自動車クラブは、他にはなかったものと思われる。
「62年にJAFが設立されてからはJMCも公認クラブとなり、JMCの会員はJAFの会費を割引するという特典も設けて共存する形となっています」
 こうして70年代まで活動を続けたJMCも、その役割を終えた形で77年には活動をいったん終了。クラブの窓口を閉めることになるが、ラリーだけではなく、モータリゼーション隆盛期に「クルマの楽しさ」を多くの人に教えた功績は大きい。こういった幅広くクルマの楽しみ方やマナーを啓蒙できるクラブが残っていれば、今になってよくいわれる「若者のクルマ離れ」も防げたのではないだろうか。




掲載:ノスタルジックヒーロー 2008年8月号 Vol.128(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

text:Osamu Tabata/田畑 修

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