フォードだけど日本製! アメリカ国内で荷台を取り付けて関税回避|アメリカ発! ニッポン旧車の楽しみ方 かたわらにクーリエがある生活 2

38年間放ってあったオリジナルのペイントを「せっかく雑誌に載るのなら」とわざわざバフがけに出してくれた。「思っていたよりきれいになったよ」とディーンさん。青いシートのかかった小さなトレーラーは、旅行のときには荷物を積んでクーリエで引っ張っていく。

広い国土と安かったガソリンのため、米国メーカーは大排気量のエンジンが載ったクルマばかりを造っていた。

ヨーロッパから入ってくる小さなエンジンのクルマは、スポーツカーが主だった。そんな構図を変えたのが、60年代に日本からやってきたダットサンやトヨタの小型トラックだった。固定為替相場制の当時、北米市場では安価であり維持費も安かった日本製トラックは、若い世代を中心にみるみるうちに販売台数を伸ばした。60年代末のことだ。

 トラック市場に、ライバルが登場することなど想像していなかった米国メーカーは、これを新たな市場ニーズとしてとらえた。

しかし小型(2L以下)のエンジンなど持ち合わせていなかった米国メーカーは、解決策として日本メーカーにOEMを打診した。それを受けてマツダは、71年12月からフォードに小型トラックの供給を開始、翌年フォード・クーリエが誕生した。これはマツダとフォードが資本提携する8年も前のことだ。

日本車人気に対する当時の米国メーカーの慌てぶりがよくわかる。それを示すかのように、当時のカタログの表紙には「Ford Courier  The smooth‐riding economy import」(フォード・クーリエ、これこそあの滑らかな乗り心地で経済的な輸入車)と、あからさまな宣伝文句がうたわれていた。


 また、販売価格を低く抑える方法の1つとして、クーリエの荷台の取り付けはアメリカ国内で行われた。これは「チキンタックス」と呼ばれるアメリカの関税を避けるための方策だった。
 60年代初頭、アメリカ産鶏肉の輸入価格が不当に低い(ダンピング)ため、ヨーロッパ諸国から地元産業を窮地に追い込んでいると非難され、高い関税がかけられた。

これに対抗するためアメリカは、63年にヨーロッパからの輸入品目の一部(これにトラックが含まれていた。ドイツ車から米国メーカーを守るための措置だった)に、平均税率の10倍に当たる25%もの関税をかけた。

とばっちりを受けたのは日本製小型トラックだったが、それをものともせず販売を伸ばす中、フォードは荷台なしの車両にはチキンタックスが適用されないことを利用し、クーリエの販売価格を抑える方法をとったのだった(それでも3000ドルという販売価格は、車体サイズに対して割高と感じられた)。


 米国メーカーを守るための法律を自ら避けて通る、という妙な構図になった。そんなチキンタックスを廃止すべきかどうか、世界が国際化した今でもまだ政治議論の的となっている。


人物 運転中
「サスペンションがよく弾むでしょ? クラッチペダルもギーギーいってるね」シートの座り心地も柔らかく、キャビンは思いのほか快適な空間だった。毎週金曜日の夕方に集まるトレインクラブには、クーリエで出かけるようにしている。近隣のプレザントン市まで、すいていれば30分ほどのドライブだ。


 長年の間にライフスタイルが変わり、クルマに対する依存の仕方も変わってしまうのがカーライフの常。若いころに買ったクーリエの使い勝手がよく、遠方へ引っ越すこともなく子供もいなかったディーンさんたちは、このクルマを手放す理由もないままに時が過ぎ、いつの間にか長期オーナーになっていた。そんな生活は今も続く。

そしてこれからもきっと続くことだろう。


 毎日同じ場所に止め、洗車をするわけでもない。それでもオイル交換などの最低限のメンテナンスは欠かすことなく続けてきた。すべての書類がきちんと保管されていたことが、ディーンさんの几帳面な性格を表していた。

整備手帳
「1974年7月スタート」の書き込みから始まるディーンさんの整備手帳。ガソリン代が生活経費と認められていた時代があり、給油の記録はもともとそのために始めた。それが習慣となり、現在も続けている。鉛筆書きが全くあせていないこの整備手帳は、今となれば、いつどこへどのくらい出かけていたかの大切な記録であり思い出だ。


 ディーンさんは、地元役所の資産課税評価の担当部署に長年勤務した後、定年退職した。

今はトレインクラブと空手指導のボランティア活動の合間に、釣りなどを楽しむ生活を送っている。マーガレットさんが護身のために始めた空手にディーンさんのほうがのめり込み、今では33年のキャリアを持つ黒帯の有段者だ。釣りでも空手の指導でも、荷物の多いときには気軽に物を積み込めるクーリエを重宝している。


「今回雑誌に出たら、日本からミリオン(100万ドル)で買いたいなんていう人が出てくるかな。でも、きっと売らないな……」いつのまにか40年分もの2人の思い出が詰まったこの小さなトラックには、ディーンさんたちにとっては100万ドル以上の価値があるようだった。


人物 鉄道模型
プレザントン市のトレインクラブは50年以上の歴史を持ち、厩舎だった建物内に30mを超すサイズのジオラマが2セットある。この日ディーンさんが走らせていた21両編成の貨物列車が、アナログ制御盤の目の前を通っていった。メンバーはそれぞれ自宅でモデルの塗装をしたり、ジオラマ用のセットを製作したりして、ここへ持ち寄る。昨年夏に催された一般公開では、2週間に5万人以上の見物客が訪れたほどの人気ぶりだった。


エンジンルーム コーションプレート
1.8L水冷直列4気筒SOHCエンジンの収まるエンジンルームには、型式プレート(左)と整備と排ガスの情報を示したシール(右)が付けられている。プレートには「TOYO KOGYO」「COURIER」と書かれ、排ガスのシールにのみ小さく「MAZDA」とあるだけ。フォードの文字は一切ない。


インテリア
簡素なダッシュボードには、オリジナルの塗装が滑らかなまま残っていた。ステアリングにはFordの文字がある。傷んだシートには、バスタオルで作ったお手製カバーがぴったりとフィット。それもすでに色あせていた。ステアリング左のチョークノブの下につくのは、予備のガソリンタンクとともに取り付けたフューエルポンプと燃料計の切り替えスイッチ。さらにその左の木製ノブはディーンさんが付け替えたもので、外気導入ベントの開閉用。三角窓の下にあるドアオープナーは、手前に倒すとドアが開き、前に倒すとドアロックする優れもの。


自動車 下回り
写真奥に見えているドライブシャフトの脇、向かって左側が後付けの予備ガソリンタンク。それに伴ってテールパイプを車体右方へ出る横向きに変更した。フューエルポンプは1つのままで、両タンクの切り替え式にしてある。トランスミッションはフロアシフトの4速MT。


掲載:ノスタルジックヒーロー 2012年8月号 Vol.152(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

text & photo:Masui Hisashi/増井久志

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