1972年終盤、ふたつの事実【3】GT‐Rを誇りとする開発陣の希望と自戒|日産 スカイライン 2000 GT-R レーシングコンセプト

ワイドタイヤをカバーするフェンダーはレーシングGT-R最終期のボディ一体志向のブリスタータイプではなく、ホイールアーチをカバーするオーバーフェンダータイプ。外観上はこちらのほうが迫力があり、ショーモデルの演出効果としては有効な手法だった

       
【日産 スカイライン 2000 GT-R レーシングコンセプト Vol.3】

【2】から続く

 旧GT‐RのボディにL系6気筒を積んだ1972年12月の富士オフシーズンテスト。このテストの結果が良好なものだったとしても、日産自動車の方針として、すでに特殊車両課主導によるレース活動の休止は決定していただけに、新型GT‐Rがレースに登場する可能性は限りなくゼロに近かった。

 世相もあり、レーシングカーとして活動できなかったC110 GT‐Rだが、仮に当時の日産レーシングテクノロジーの総力を結集していたらどうなったかを考えたことがある。

 サニーエクセレントが採った4バルブLZ14型改の手法だ。これをL系6気筒に当てはめれば、LZ24型、LZ26型が可能だったはずだ。気筒数を別にすればL系エンジンの基本デザインはすべて共通。300psオーバーは見越せただろうから、ロータリー勢とも十分以上に戦えただろう。

 実際には、1972年で幕引きとなったGT‐Rの活動だが、優勢なロータリー勢を相手に、苦境に立たされても力の限りを振り絞り、敢然と渡り合った姿には王者の風格がにじみ出ていた。
 排ガス対策のため、先の見えない時代へ突入しようという時期に、そしてレース活動から遠ざかることを余儀なくされた時期に、実現の可能性がない新型GT‐Rのレース仕様車をイメージし提示したことは、GT‐Rを誇りとする開発陣の将来に対する希望と自戒の表れだったのかもしれない。

 状況のいかんにかかわらず、常に目標に対して全力で立ち向かう。このモデルはGT‐Rの本質、戦いの精神を象徴していたように思えてならない。

>>【画像11枚】レーシングコンセプトに装着されたオーバーフェンダーとフロントスポイラーの新型GT-Rが市販されることを望んだファンも多かったに違いない。現在なら可能性のある話だが、当時の運輸省では認可の可能性はゼロだった。爆発的な人気となったケンメリだがさらに売れただろう




>> 復元時にメーターパネルをリメーク。やはり当時の日産レーシングカーと同じ作りだが、ノーマルから一転してレーシングカーらしい雰囲気が漂うコクピットに変ぼう。




>> ヘッドレストまで持つバケットシートが普及するのはこの時代。ショーモデルとしての仕上げは時代の最先端で固められていた。




>> アクセルペダルはオリジナルのオルガン方式のまま他のペダルとともに滑り止め加工を施している。


初出:ノスタルジックヒーロー 2017年10月号 vol.183
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

日産 スカイライン 2000 GT-R レーシングコンセプト(全3記事)

関連記事:ケンメリ クロニクル

関連記事: スカイライン



【1】【2】から続く

photo : RYOTA-RAW SHIMIZU/清水良太郎

RECOMMENDED

RELATED

RANKING