日本初のFRの4輪独立懸架にかけた いすゞ設計陣 べレット(SX)開発責任者 水沢譲治氏に聞く 1

ISUZU SPECIAL PART.1

日本初のFRの4輪独立懸架にかけた いすゞ設計陣 
べレット(SX)開発責任者 水沢譲治氏に聞く

いすゞのべレットは旧車のなかでは人気がある。
しかし、一般にいすゞはトラックメーカーで乗用車を昔作っていたことを知らない人もいる。
そこで、今回いすゞはどんな会社なのか、その歴史はどんなものだったかを調べてみた。
さらにべレットはなぜ人気車になったのか、その秘密を探ってみた。
当時、べレット(SX)の開発リーダーだった水沢譲治氏(元副社長)に開発の話を聞いた。
足回りの問題をいかに克服したかが明らかになった。


 水沢譲治 1923(大正12)年3月8日、東京・青山に生まれる。父親は外交官。モダンな譲治という名前は「国際的に通用するように」ということで父親がつけたものだ。母親は38歳で亡くなったため、幼少の頃から母親の実家の大分県別府で16歳まで過ごす。祖母は気丈で「良い学校へ入るには東京でなければダメ」という考えで一家で上京、京華中学5年に編入、そして旧制第一高等学校理甲に進学、東京帝国大学機械工学科に入学、46年に卒業した。いすゞの定期入社の募集人員は7名で、水沢は難関をパスし46年10月に入社した。

 いすゞの社名の変遷や車名の由来について簡単に説明しておこう。

 37年4月、自動車工業と東京瓦斯電気工業が合併し、東京自動車工業になる。41年4月、ヂーゼル自動車工業に改称。さらに、49年7月、いすゞ自動車に改称した。

「いすず」ではなく「いすゞ」が正式名称である。書家の永坂石埭(せきたい)の書風で石埭流と呼ばれるものである。いすゞの名前は伊勢神宮(神社本庁の本宗で正式名称は神宮)を流れる五十鈴川(内宮の西端を流れる川)に由来している。いすゞのマークの楕円にある模様は五十鈴川の12のさざ波を表していた(34年から74年まで使用)。 

 BELLEL(ベレル)はBELL(鈴)とEL(数字の50)を組み合わせた合成語。ベレルは五十鈴(いすゞ)を意味する。べレットはベレルの小型を意味する造語だ。

 話を水沢に戻そう。

 水沢は入社後、研究部設計課車台係に配属される。45年9月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)はトラックに限り生産を許可、乗用車の製造が禁止されていた。49年10月、GHQは年間300台の乗用車生産制限を解除した。

 いすゞは53年2月13日、ルーツ・モーター社(以下ルーツ社)と技術援助協定を締結した。ヒルマン・ミンクスとデリバリーバンの製造権を取得し、11月12日からヒルマンが販売された。

 53年から7年間の契約でヒルマンの国産化がスタート。小池貞光が1人で担当していたところに、島崎喜三郎課長以下研究部付きメンバーが加わることになった。水沢はこの一員として乗用車開発に関わることになる。ヒルマンを生産していたルーツ社のインチをミリに直すため、手回しの計算機を使い、時間をかけて1つ1つのパーツを図面化していった。

 59年9月、水沢はヨーロッパへ2カ月間出張した。ヨーロッパのモーターショーを見て回った。ドイツのフランクフルト、フランスのパリ、イギリスのロンドン、イタリアのトリノ。ここで先進国の乗用車のニューモデルに大きな刺激を受けるとともに、いすゞの次期モデルのあるべき姿について学んだ。その2年前、島崎も同じモーターショーを見て回っている。

 

楠木専務は芸大から若い
デザイナーを採用した。

 ヒルマンの次の乗用車開発に当たって、楠木直道専務(のちに社長を62年から65年まで務める)が指示し、研究部長の伊藤正男が東京藝術大学(以下芸大)と交渉し、若いデザイナーを採用しようとした。

「これからの自動車デザインは感覚のフレッシュな若い人にやらせるべきだ」と楠木が強く主張したからだった。いすゞの存亡をかける新車デザインを芸大在学中の学生に託したのだった。

 デザイナーの入社第1号は57年不定期入社の佐々木悠元。柳宗理デザイン研究所(柳宗理は56年に三井精機工業のTR-1オート三輪をデザインしている)の手伝いをしていたがいすゞへ入った。2人目は58年入社の芸大出身の内藤久満。内藤は在学中の夏休みの実習でベレルを同期の井ノ口誼(よしみ)と共にデザインしている。3人目は佐藤昌弘。芸大出身だが他の会社を経て、59年2月不定期入社。4人目は同期から1年遅れの59年4月に正式入社した井ノ口。内藤、佐藤、井ノ口は芸大の同期だが、それぞれ入社時期が異なる。

「私は川崎工場近くの多摩川の土手に座って、井ノ口くんが入社してくれるように説得しましたよ。3~4カ月かかったかな。なかなかうんと言ってくれなかったね」(水沢)

 井ノ口は優秀であったため芸大に副手として残っていたが、いすゞからの要請を受けて、いすゞのために仕事をすることになった。

 ベレルは井ノ口と内藤の作品だが、三宮吾郎社長へのプレゼンテーションには、井ノ口は大学の卒業制作で忙しく、出席できなかった。彼らがデザインしたベレルは、後でわかったことだがランチア・フラミニア・ベルリーナに似たスタイルになった。



ベレル

 アメ車が先鞭をつけたテールフィンのデザインは全盛だったが、井ノ口は「これからは水平が基調になる」と力説した。フロントが丸くリアがシャープになるコンセプトを採用した。本誌90年8月号で「スクープ 謎の試走車ベレル」として、クラウンのテールランプを装着したベレルを掲載した。特徴だった三角テールをカモフラージュしたモデルだった。

 ベレルのAピラーは強度不足で、ひびが入り、対策に追われた。セドリックのラップラウンドのAピラーは剛性を高めるように対策してあった。

 ベレルのディーゼル車はタクシー業界から振動のクレームがつき、技術陣は問題の対策を急いだ。

「今にして思えば、ベレルはヒルマン・ミンクスの使える所をもっと利用するべきでした。スタイルでも、設計でも、部品でも」とは当時常務だった岡本利雄元社長の述懐であるが、ルーツ社はヒルマンの部品をベレルに使うことを許さなかったのだ。

「日本人が自力で乗用車など造れるもんか」とルーツ社が蔑視したことはあからさまで、それなら「ヒルマン以外の乗用車を造ってやる」と意地を張って造ったのがベレルだった。

 ベレット(開発記号SX)は月産5000~6000台計画された。藤沢工場ではヒルマンとベレルの他にその台数を生産する必要があった。

 正式に60年5月22日、SXの開発スタッフが決まった。担当は小型車設計二課(通称しょうにか)。設計の経験がないがやる気十分で優秀な人間が集められた。まとめを担当した水沢は新人に工事中の藤沢工場を見せながら「こんな工場で作るんだから、がんばらにゃいかん」と話した。

 水沢自身も37歳の若さで、メンバーは30代前半までの若者だった。そのメンバーは中野義信、上田連(むらじ)、杉本健一、田村匠(ただし)、花岡忠、杉田順、北川貞雄、梶谷達他。

 その直前、会社幹部による大試乗会を開催され、SXの競合車のブルーバード、コロナ、VW、フィアット、モーリス、ヒルマンなどが集められた。ここで、楠木専務らトップはすぐ4輪独立懸架が良いと、結論を出した。FRの4輪独立懸架は日本初だった。まだ、日本の道は悪路が多く、その方式が成功すればいいことばかりだった。

 当時は オーナードライバーの時代になりつつあり、高速道路を安定して走れる低重心のクルマを目指した。そのためには4輪独立懸架が必要になってくる。

 前ヒンジのボンネットや当時の主流であったコラムシフトの代わりにスポーティなフロアシフトやバケットシートを採用するなど、数多くの新機構を盛り込んだ。当時のいすゞにはこうしたチャレンジを認める土壌があった。

 ヒルマンの欠点とされた重いステアリングを改善することになった。軽くてしかも応答性のよいものにすることにし、ラック&ピニオンが採用された。ギア比は15:1でロックtoロックは3回転というシャープなものが選ばれた。従来のボールスクリューに比べて、剛性が高く、ステアリングの動きが直にクルマに伝わる感じで、社内での実験では評価が高かった。しかし、一般のユーザーにとっては、やや過激に思われた。

 62年1月、メカニカルプロトと第一次試作が完成した。

 数多くの問題を克服して、やっと完成した第一次試作だった。お披露目の日が近づいた。(続く)

* (文中敬称略)

cooperated by ISUZU MOTORS LIMITED/いすゞ自動車
参考文献=鈴の音

掲載:ノスタルジックヒーロー 2010年12月号 Vol.142((記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

text:Nostalgic Hero/編集部 photo:Hideyoshi Takashima/高島秀吉

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