1978年3月30日に始まったセブンの歴史 〜3世代にわたるロータリースポーツの系譜〜|黄金時代を駆け抜けた孤高のピュアスポーツRX-7 Vol.1

SAの誕生から24年、3世代にわたり「ピュアスポーツ」を追い求めたRX-7。

       
社会情勢がめまぐるしく変化した70年代から90年代の中にあって、変わらぬ理想を追い求めたクルマ。それが「真のスポーツカー」像を追求し、唯一無二のロータリーエンジンを搭載したRX-7だ。激動の時代を駆け抜け、多くのファンに愛された3世代のピュアスポーツの足跡をたどる。

【黄金時代を駆け抜けた孤高のピュアスポーツRX-7】

▶▶▶【画像13枚】歴代RX-7とそのエンジンルームなど

 戦後の日本はまさにゼロからの出発で、右肩上がりに成長を続けた。とくに1955年から続いた高度経済成長期は、年平均10%以上もの成長率を記録。エネルギーも石炭から石油へと移り変わり、新しい生活の象徴として白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の家電三種の神器が広く普及し始め、人々の暮らし自体が大きく変化した。自動車界の発展も目を見張るもので、初代クラウンやハコスカ、S30フェアレディZ、スバル360など名車が数多く生み出されたように、国民の生活にクルマが根付き、新たなクルマの誕生に沸き立った……そんな活気に満ちた時代だった。

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 しかし、一転して好景気に影を落とす事態が発生する。それが第四次中東戦争に端を発した73年の第1次オイルショックだ。これにより、原油価格の高騰をはじめ急速なインフレが起こり、日本国内は戦後最大の混乱に陥った。輪をかけるように79年にはイラン革命による第2次オイルショックが起こり、日本経済を直撃。加えて、自動車界ではアメリカのマスキー法を受けて73年から排ガス規制を順次導入。78年の規制はガソリン車にとって世界でもっとも厳しいものとなった。経済の混乱と排ガス規制により、もはやクルマに乗ることもままならない……70年代はそんな時代だったのだ。

 そんな時代に1台のスポーツカーがさっそうと誕生した。

 それが78年3月30日に発表されたSA22CサバンナRX-7だ。核となるのはマツダが世界で唯一、量産化を果たしたロータリーエンジン。この小型&軽量なエンジンの特性を生かして、低重心により運動性を高めるとともに、スポーツカーならではの精悍なスタイルを手に入れたSAは、日本だけでなくアメリカでも高い支持を得た。逆境に負けないマツダの情熱と思いが、多くのクルマファンの笑顔を取り戻したのだった。

 7年半のモデルライフを送ったSAの後を継いだのが、85年10月にデビューした2代目サバンナRX-7のFC3S。FCに求められたのは、初代が築き上げた名声を高めると同時に、さらに純粋なスポーツカーとしての進化を遂げることだった。そのために開発陣は原点に戻り、「スポーツカーとは何か?」をテーマに議論を尽くし、そして「心地よい緊張感が感じられるクルマ」という答えにたどり着いた。

 こうして誕生したFCは、心臓部をSAの12A型から、2ローターツインスクロールターボの13B型へと進化。暗黒の70年代から一転、激化したハイスペック競争の後押しも受けて、多くのスポーツカーファンをとりこにした。

 FCの成功の裏では、早くも新たなスポーツカーの開発がスタートしていた。バブル経済の好景気に沸き、より高性能で豪華なクルマが求められていた80年代後半。しかし、マツダはかたくなに真のスポーツカーを追い求めた。

 その解としてマツダが出したのが、91年10月に誕生した3代目のFD3SアンフィニRX-7だ。よりアグレッシブでエモーショナルになったスタイルと、ツインターボで武装した13B‐REW型ロータリーの圧倒的なスペックは、熱狂的なファンを生み出した。

 SAの誕生から24年、3世代にわたり「ピュアスポーツ」を追い求めたRX-7。2002年8月にFD3Sの生産終了が発表され、惜しまれつつその幕が下ろされた。「すべてはピュアスポーツのために……」。孤高のスポーツカーは大きな足跡を残した。

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初出:ハチマルヒーロー 2013年11月号 Vol.23(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

text:Rino Creative/リノクリエイティブ photo:Akio Hirano/平野 陽

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