「アドバンラリーチーム」の起源も! 排ガス規制で沈滞傾向だったモータースポーツ、高性能量産車の登場が浮上のカギ|国内モータースポーツの興亡 ラリー編 Vol.3

70系は、リジッドアクスルながらリーフスプリングからコイルスプリングで吊るリンク方式となったリアサスペンションによって走行性能は大きく向上。トヨタ車らしく素直な操縦性による運動性能の高さに特徴があった。

       
量産車を使うモータースポーツは、改造規定が厳しく制限されるほど、生産車の持つ基本性能が重要になってくる。排ガス対策期を乗り切った80年代の高性能量産車は、日本のモータースポーツを発展させる原動力となっていた。中でもノーマル車をベースとした競技で、その中核をになったラリーを振り返る。

【国内モータースポーツの興亡 ラリー編 Vol.3】

【2】から続く

 排ガス対策期の数年間は、市販車から魅力ある性能を奪ったばかりでなく、量産車をベースとするモータースポーツ活動からも活気を奪っていた。早い話、モータースポーツのベース車両がないため、市販車を使う当該カテゴリーもなく、サーキットレースといえばF2/FJ1300やGCといった市販レース専用車両を使うカテゴリーが中心で、活動の主体もプライベートチームが担っていた。

 逆に言えば、量産車を使うカテゴリー、あるいは自動車メーカーが参画できるカテゴリーがなく、モータースポーツを活性化させるには、こうしたあたりの対策が急務となっていた。


【画像12枚】ソレックスキャブレターを装備し昭和50年排ガス規制値をクリアできず、いったんは生産中止となったが、EFIの装備と触媒の進化によって復活した2T-G型など


 一方、一般公道やクローズドエリア(主に林道など)を組み合わせて使うラリーでは、当然ながら市販車を使うため、ベース車両が持つポテンシャルは重要な要素となっていた。それだけに、排ガス対策過渡期のモデルが使われるはずもなく、また競技規定も緩やかだったことから、TE27レビン/トレノや610ブルーバード、A73ランサーなどのフルチューニングカーが闊歩する状況で、実際に活況を呈していた。

 しかしながら、排ガスによる環境汚染が問題視される世情で、排ガス出し放題のナンバー付きフルチューニングカーというのはあまりにも問題がありすぎるということで、1979年からエンジンチューニングを禁じた新規定で全日本ラリー選手権が開催されることになった。正確にはこの年だけ全日本ラリードライバー選手権の名称となるのだが、「ノーマルカー」初代チャンピオンに輝いたのは、意外にも三菱ミラージュだった。と言っても、走らせたのがタスカエンジニアリング、車両名はアドバンミラージュ、ドライバーが山内伸弥という、いわゆるアドバンラリーチームの起源だったから強いのは当然とも言えた。





EFIによって難関の昭和53年規制を突破したタイミングで、カローラ/スプリンター系が70系にフルモデルチェンジ。



 期待されたTE71勢は、実は発表年の1979年はパーツ等の参戦体制が整わず、本格参戦は翌1980年からとなるのだが、最終戦のツール・ド・ニッポン79に竹平素信が2ドアHTを持ち込み、この年連勝を重ねたアドバンミラージュ勢を退け、総合1位を勝ち取って早くも潜在能力の一端を見せていた。また、このラリーには加勢裕二もTE71で参戦し、翌1980年はTE71勢が全日本ラリー選手権の主力として勢力を伸ばしそうな気配を見せていた。

 この頃の全日本ラリー選手権は、有力ラリーショップ同士による車両製作技術やセッティング技術の競い合いといった色が濃く、マジョルカ・竹平、キャロッセ・加勢、ラック・勝田といった顔ぶれが中心勢力となっていた。

 翌1980年は、やはり予想通りにTE71勢が一大勢力となり、堀田、勝田、竹平らが交互に勝ち星を収める形で獲得ポイントをのばしていた。ラリーカーとして見たTE71の特徴は、コンパクトでバランスに優れたボディ&シャシーに、瞬発力に優れたDOHC115psエンジンを組み合わせ、軽快で素直なハンドリングによる高い運動性能を大きな武器にする、といったあたりに集約されている。こうした点は、スカイラインGTを破ったトヨタ1600GT以来、トヨタ系ツーリングカーが持つ大きな美点と呼べる特長だった。


【4】【5】に続く


初出:ハチマルヒーロー 2014年 05月号 vol.25(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

国内モータースポーツの興亡 ラリー編(全5記事)

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text & photo : AKIHIKO OUCHI/大内明彦

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