先陣は「430セドグロ」! 昭和53年規制の達成と同時に、反動による高性能化が始まった|国内モータースポーツの興亡 ラリー編 Vol.1

70年代中後半、排ガス規制対策期のラリー活動を支えたのは、実はフルチューンエンジンを搭載した車両で、その主力は2T-G型搭載車だった。国内戦でもTE27レビン、TE37レビンを使った竹平素信はTE27レビンで英RACラリーにも参戦した。

       
量産車を使うモータースポーツは、改造規定が厳しく制限されるほど、生産車の持つ基本性能が重要になってくる。排ガス対策期を乗り切った80年代の高性能量産車は、日本のモータースポーツを発展させる原動力となっていた。中でもノーマル車をベースとした競技で、その中核をになったラリーを振り返る。


【国内モータースポーツの興亡 ラリー編 Vol.1】

 自動車にとっての1970年代は、排ガス規制対策に追われ、その他すべての性能進化は後回しにされる耐乏の時代だった。極論すれば、排ガスによる公害問題を解決できなければ、ガソリン機関による自動車の存続自体が危ぶまれる時期だった。

 排ガス規制そのものは、昭和48年、50年、51年、53年の4段階に分けて実施され、最終段階となる53年の規制値は、当時世界で最も厳しいレベルにあり、在来技術による達成は困難と見られるものだった。

【画像12枚】80年代高性能化の口火を切った、量産ターボシステムによる430セドリック/グロリアなど

 それだけに、難攻不落と言われた昭和53年排ガス規制を乗り越えた最新の燃焼テクノロジーは、その直後に迎える高性能化時代の基盤技術として活用できる、大きな付加価値を持っていたのである。この点については改めて触れることになるが、53年排ガス規制値をクリアしたことは、自動車メーカーとして社会的な責務を果たす形となり、再び高性能化の道を歩むことができるようになったわけである。

 その口火を切ったのが、1979年登場の日産セドリック/グロリア・ターボ(430)だった。認証を得るための申請理由は「省燃費化のためターボを装着」という、今聞けばなんとも荒唐無稽なものだったが、当時の運輸省は新メカニズム(前例のないもの。この場合はターボチャージャー)による高性能車の認可に対して、非常に神経質だったのである。

 430セドリック/グロリア・ターボ用L20ET型の性能が、同シリーズ最大排気量のL28E型を上回らないよう設定されたのも、こうした配慮によるものだった。


【2】【3】【4】【5】に続く

初出:ハチマルヒーロー 2014年 05月号 vol.25(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

国内モータースポーツの興亡 ラリー編(全5記事)

関連記事: 国内モータースポーツの興亡

関連記事: ラリー

text & photo : AKIHIKO OUCHI/大内明彦

RECOMMENDED

RELATED

RANKING