すべてが強く印象に残る車がコスモスポーツだった|マツダ・コスモ・ヒストリー Vol.1

スポーツからラグジュアリーへとシフトしていったコスモ。

       
1967年に販売開始された初代コスモスポーツから、1996年に生産終了した4代目にあたる3ローター搭載車まで、コスモは常に時代の先を行くものとして進化を続けてきた。その歴史の流れをここでは追ってみたい。

【コスモ・ヒストリー Vol.1】


 マツダコスモというと、旧車ファンにとってはまず、1967年に販売開始されたコスモスポーツの姿が思い起こされるだろう。ドイツのNSUヴァンケルが製作に成功したものの、まだ完成の域まで達していなかったロータリーエンジンの開発にマツダが総力を挙げて取り組み、実用化、量産化を成し遂げたその苦難の道のり。宇宙をイメージさせる未来的なボディのフォルム。すべてが強く印象に残る車がコスモスポーツだった。


▶【画像11枚】1967年5月から1972年9月まで生産されたコスモスポーツなど

 ロータリーエンジン開発以前、マツダと言えば3輪トラックのトップメーカーであった。しかし、時代はすでに4輪車の時代へと突入しており、他の自動車メーカーに対して後れを取っていたことは否めない状況。通商産業省の自動車業界再編計画の波にのまれ、吸収、消滅の危機にさらされていた。NSUとの技術提携により、社運をかけた実用化研究に着手して6年。その成果が10A型2ローター・ロータリーエンジンであり、それを搭載したコスモスポーツは、マツダのフロンティアスピリッツを象徴する新時代のクルマだったのである。

 このまったく新しいクルマを世に問うために、選ばれたのが耐久レースだった。1968年8月に西ドイツのニュルブルクリンクで行われたマラソン・デ・ラ・ルート84時間耐久レースに参戦。この過酷な耐久レースで、コスモスポーツは見事総合4位を獲得する。出走59台、完走26台というサバイバルレースで見事ロータリーの耐久性を証明。順位はポルシェ、ランチアに次ぐものだった。マツダのロータリーエンジン搭載車によるレースシーンでの栄光は、ここから始まったのである。

 名車コスモスポーツは1972年に生産が終了。3年間の沈黙の後、登場したファン待望のコスモは、スポーツカーではなく、ラグジュアリカーとしてのキャラクターが濃いクーペとしてわれわれの前に現れた。

 APとはアンチポリューションの略。低公害型エンジンを搭載していることを車名でも誇る。アメリカで制定された自動車排出ガス規制、通称マスキー法。CO(一酸化炭素)やHC(炭化水素)の濃いロータリーエンジンではこの規制をパスすることは難しいと考えられ、対米輸出が不可能とまで言われていた。しかしマツダはロータリーではREAPS、レシプロではCEAPSという、サーマルリアクターを使用した再燃焼システムを開発し、昭和50年の排ガス規制に適合させることに成功。同時代、ルーチェ、サバンナ、ファミリアなどもAPを前面に押し出したラインナップを展開する。




コスモスポーツ。前期型であるL10Aは1967年5月から1968年7月まで。後期のL10Bが1968年7月から1972年9月まで生産された。写真は後期型。






2代目コスモAPは当初、クーペボディで登場。1975年10月発売開始。「赤いコスモ」のイメージカラーであるサンライズレッドのほか、マーガレットホワイト、アスコットブラウンメタリック、サンビームシルバーメタリックがあった。1977年7月にコスモLが登場。Lはランドウトップの意味で、後部座席に馬車をイメージした屋根の造形となる。1979年9月27日に後期型へマイナーチェンジ。異形ヘッドライト採用など、大幅なフェイスリフトを受けた。メーター類、シートなども一新。足回りの強化、リアスタビライザーの改良が施される。







【2】に続く

初出:ノスタルジックヒーロー 2015年 12月号 vol.172(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

コスモ・ヒストリー(全2記事)

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text : NOSTALGIC HERO/編集部

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