トヨタ・ジープだった!? ランドクルーザーの系譜|1971年式 トヨタ ランドクルーザー  Vol.2

ホリスターヒルズの丘を走るジンさんの1971年式トヨタ・ランドクルーザー。運転席から見る路面は車外から見るよりも、段差はより大きく、斜面もより急にうつる。そんな悪路を難なく走り抜けるFJ40の姿は、「豪快かつしなやか」だ。

       
【1971年式 トヨタ ランドクルーザー  Vol.2】

【1】から続く

●ランドクルーザーの系譜

 トヨタ・ランドクルーザーのルーツをたどると、その型式名FJの「J」の起源にもなったアメリカ製の「JEEP(ジープ)」という、第二次世界大戦時の4輪駆動車に行き着く。戦地では「機動性」は勝敗を決定する重要な要素であり、それは古くは馬、近代ならばクルマだ。必然的に走破性が要求される。

 敵対していたドイツが戦地に投入したキューベルワーゲン(リアエンジン後輪駆動、1940年ごろ)と呼ばれた軍事車両を見たアメリカは、それに勝る車両の開発を自国メーカー各社に要請。与えられたわずか数カ月の開発期間を経て、出そろった試作車の中から採用されたのが、小型車メーカーだったバンタム社のフロントエンジン4輪駆動車、バンタム・ジープだった。その車両の大量生産を請け負ったのはウィリス社とフォード社。その際、キューベルワーゲン同様にフェンダー上に独立して配置されていたヘッドライトを、フォード社提案のボンネット内配置のライトに変更し、今日まで続くジープのフロントマスクの意匠ができあがった。

 戦地に次々と出現したアメリカ製ジープを日本は1台接収し、それを手本とした車両製作の命をトヨタが受けた。戦時下トヨタはジープ型自動車を造りあげたものの間もなく終戦となり、それは戦地で活躍することはなかった。

 戦後対策で混乱した日本国内で、1950年は「毎月数百台程度の生産しか達成できなかった。トヨタにとって、どん底の時代である」(トヨタウェブサイト・名車ギャラリー「ランドクルーザーの哲学」より)。ところがこの年の6月に朝鮮戦争が勃発。すぐに参戦したアメリカの統制下にあった日本は、物資供給基地の役目を担った。アメリカは朝鮮半島にジープを投入するため、ノックダウン生産を三菱に依頼。こうしてくしくも他所の戦争がきっかけとなって、日本製(三菱製)ジープが誕生した。

 同時に、日本国内用途の車両が必要になり始めると、日産と三菱がそれぞれ生産したジープ型自動車に対抗して、トヨタはBJ型ジープを製造。これがいわゆる「初代ランクル」だ。この段階ではトヨタのみがフェンダーライトを採用していた。命名は、当時4輪駆動車の代名詞といえた「ジープ」の名称をそのまま取ったものだった。

ジンさんの生まれ育ったサリナスの町からは山を1つ越えた山中にあるホリスターヒルズSVRAのようすなど【写真13枚】



緑色のほうのFJ40はエンジンのかかりが悪く、この日は赤いFJ40でホリスターヒルズへ行くことにした。この赤いFJ40もシボレー製V8エンジンに換装してあった。公園へ向かう途中に立ち寄ったガソリンスタンドで給油した際に、トランスファーオイルがポタポタと漏れていたのを発見。「久しぶりに動かすから仕方ないね」と言いながらジンさんはオイルをその場で購入し、補給していた。






オフロードを楽しんだ後、公園を出てからほどなくするとジンさんはコイン洗車場にクルマを止めた。「ずっとガレージに置き放しだったから、今日の公園の泥だけじゃなくて、たまったホコリもすごい」と、しばらく洗車をしていなかったことが気にかかっていたようだ。



【3】【4】に続く


初出:ノスタルジックヒーロー 2015年 04月 Vol.168 (記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

1971年式 トヨタ ランドクルーザー (全4記事)

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text & photo : HISASHI MASUI/増井久志

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