社内で賛否両論! ベレットのDOHC化|いすゞ ベレット 1600 GT Vol.3|痛快スポーツモデル

ドライバーのタイプとしてはスプリントから長距離耐久まで万能型だった米村。冷静に状況を判断しながらレースを進められる強みがあり、安定した成績を残すことができた。

       
【いすゞ ベレット 1600 GT Vol.3】

Vol.2から続く

DOHCベレット、GTRの登場、MX1600の母体だったR6

 1968年に入るとツーリングカーレース界の様相は一変した。トヨタが1600GTを繰り出してきたからだ。トヨタのツーリングカーレースは、TMSC系のプライベーターがコロナ1600Sで細々とした活動を展開する程度だったが、自工系がプロトタイプ(RTX)を走らせ、1600GTとなってから自販系チームが重点的に使い始めたことで、ベレット、スカイライン勢の旗色が悪くなっていた。

 これに触発されたわけでもないのだろうが、いすゞは8月の鈴鹿12時間レースに、117クーペの1.6LDOHCエンジンを積むベレット1600GTXを参加させていた。これが後に1600GTRとなるわけだが、ベレットのDOHC化にあたっては社内で賛否両論分かれたという。

「117クーペ用のエンジンをベレットに積むと117のステイタスが下がる。DOHCになると製造ラインで車体下側から組み込むこれまでの方法が使えなくなる、といったものでしたね。一理あるといえばあるんですが、商品企画の面から見たら消極的な意見だったと思いますよ」

ベレットGTRは量産車としては優れた車両だったが、レースへ投入するには時期が遅すぎた【写真7枚】




 しかし、結果的にいすゞはベレット1600GTXを作り、ほぼ1年にわたりレースで走らせた。デビューから丸1年となる1969年の鈴鹿12時間では、トヨタ1600GTを抑えて総合優勝を勝ち取る戦闘力の高さも見せていた。ただし、GTXは量産車でなかったため、Tクラスではなく最後までRクラスでの参戦となっていた。それだけに改造の自由度も高く、厳密に言えば、トヨタ1600GTと同列で比べることはできない状態にあった。

「最初にDOHCベレットを作ったのは、実はいすゞじゃなくて鈴木板金だったんですよ。いすゞとボディーワークに関する部分で密接な関係にあった鈴木板金で、117クーペ用のG161W型エンジンをベレットに載っけてしまったんですね。こうしたこともあり、いすゞとしてはやらざるを得ない状況となって、ベレットGTRが商品化されたわけです」

 しかし、ベレットGTRがツーリングカーレースに本格的な参戦を果たすことはなかった。S54スカイラインGTに代わるPGC10スカイラインGT‐Rが送り出され、1.6Lでなんとかできる相手ではなくなっていたからだ。



 逆に、いすゞの目は本格的なレーシングカープロジェクトに向けられていた。69年の日本グランプリではメインレースへの参戦となっていた。シボレーV8を積むグループ7のR7とベレットGTRの1.6LDOHCを積むグループ6プロト、R6クーペの二本立てである。

 R6クーペは量産も見越した舟形フレームを採用していた。同年の東京モーターショーに参考出品されたミッドシップスポーツMX1600の先行開発モデル的な役割も背負わされていたのである。

 ベレットGTは1973年3月まで生産されたが、もう一方のGT、スカイラインGTと比べるとあまりに短命だった。しかし、今もノスタルジックカーの世界で魅力ある存在として輝きを放っていることを見れば、ベレットGTというクルマの果たしてきた使命が、語るまでもなく伝わってくる。(文中一部敬称略)


初出:ノスタルジックヒーロー 2014年7月号 Vol.163(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

いすゞ ベレット 1600 GT(全3記事)

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text : AKIHIKO OUCHI/大内明彦

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