秘密裏に手に入れた車両でレースデビュー、歴史を作ったBRE|ダットサン・ロードスター Vol.2|アメリカ発! ニッポン旧車の楽しみ方

このロードスターがまとうゼッケンは、BRE最初のダットサン・ロードスターであり、そのドライバーであったフランク・モニズに捧げる「14」である。モニズは「44」を常用していたが、1969年のテキサス州のレースでは他のレーサーに44があてがわれたため、そのときに1度だけつけたゼッケンなのだ。

       
【ダットサン・ロードスター Vol.2】

Vol.1より続く

●歴史を作ったBRE

 アメリカのレースではダットサン・ロードスターは1962年ごろから散見されたが、その知名度の上昇は1964年にSPL310を駆ったボブ・シャープに端を発する。このクルマに確かな手応えを感じたシャープは、アメリカ東部日産からサポートを獲得。シャープのチームはその後もダットサンを走らせ続け、ダットサンレースの最大の成功者とも言われた。また当時の北米日産は、プライベーターに対してもレースパーツの供給やアドバイスを惜しむことがなかったと伝えられている。

冬のドライブには寒すぎるという最低限の装備のみのキャビンなど【写真4枚】

 そのころのアメリカ西海岸といえば、まだ小さなチームがいくつかダットサンを使っていただけだった。そんなレースシーンに突然登場した大物がいた。ピート・ブロックである。

 キャロル・シェルビーの下、デイトナクーペのデザイナーとして名を馳せたブロックは、1965年に独立して「ブロック・レーシング・エンタープライズ」(BRE)を設立。日野のレースカーデザインを請け負っていたBREは、1966年に日野と提携したトヨタと近しくなり、1967年にはトヨタ2000GTのレース仕様車製作を請け負うこととなった。

 ところがトヨタは、その年の年末になって突然方針転換を決定。2000GTは、事もあろうにシェルビー率いるシェルビー・アメリカに託されることになった。この突然の機会喪失に苛立ったブロックは、レース場で決着をつけるべく、対抗馬として白羽の矢をたてたのがダットサン・ロードスターだった。ベース車両の提供を北米日産に打診したブロックは、「意外なことに、レースの提案に興味を持ってもらえなかった」と後に記している。

 それでもロードスターを諦めきれなかったブロックは、日本にいた知人を通じて車両を秘密裏に手に入れ、1968年シーズンに鮮烈デビュー。このときのドライバーがフランク・モニズだった。翌年にはジョーン・モートンもドライバーとしてBREに加わり、ロードスターから240Zに引き継いだ70年、71年とBREは連覇を成し遂げた。

 デイトナクーペやフォードGTを世に送り出したシェルビーは、ル・マンでイタリアのフェラーリを破った英雄としてアメリカでは語られる。そのシェルビーとトヨタのタグは図らずもわずか1年で解消した半面、BREはアメリカレース史における日本車の登場を、かくも華々しく飾ったのだった。

小さめのバッテリーが目に留まるほかは、一見何の変哲もないエンジンルームなど【写真4枚】



Vol.3に続く

初出:ノスタルジックヒーロー 2014年4月号 Vol.162(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

ダットサン・ロードスター(全2記事)

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text & photo : HISASHI MASUI/増井久志

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