1977-1986|日本のモータースポーツ活動沈滞期に、国際舞台で活路を開いた「ラリーの日産」 |ラリーの日産 Vol.1

排ガス公害が大きな社会問題となり対応が急務だった時代、唯一日産だけはモータースポーツ活動を継続していた。

       

【ラリーの日産 Vol.1】

日産がサファリ、モンテカルロといった国際ラリーでトップコンテンダーに躍り出たのは、510ブルーバードを足掛かりとした240Zの時代、すなわち1970年代初頭と見て間違いない。しかし、この時期は排ガス公害が大きな社会問題として急浮上し、対策のため自動車メーカーは企業力の傾注を余儀なくされ、モータースポーツどころではなかった。しかし、唯一日産だけは間隙を突く形で活動を継続。世界のひのき舞台にその名を刻んでいた。

 排ガス対策のため、日産自動車が日産ワークスとして表立った国内活動を休止するのは1972年(昭和47年)のことである。しかし、ほぼ国内だけに限られていたレース活動とは異なり、国際ラリーへの参戦活動は海外市場に対する影響力も併せ持っていただけに、日産としては完全に手を引くことができず、海外の各活動拠点に対する後方支援あるいは間接支援は、むしろこれまでより関与の度を深めていた。

 自動車を取り巻く環境が大きな社会問題となっていた時代だけに、国際ラリーといえども日産の看板を前面に打ち立てての参加は手控えなければならなかったが、競技車両の内容を見れば紛れもない日産ワークスという状態が比較的短時間のうちに復活した。

 日産の公表資料によれば、ワークスとしての本格復帰は1979年(サファリ)となっているが、実質的には1977年のサザンクロス・ラリー(オーストラリア)と見たほうがよいだろう。

 現代のモータースポーツにおいても事情はまったく同じだが、どこまでをメーカーの支援活動と見なし、どこからがワークス活動となるのか、その定義付けは非常にあいまいだ。「隠れワークス」などという言葉が使われるのもこのためだが、こうしたグレーゾーンがあることにより、排ガス対策下、オイルショック下(当時は省エネ思想がはびこる)でも、モータースポーツ活動(開発という意味で)を続けることができたのだから、決して悪いことではないだろう。

 本筋を言うならば、極限の自動車性能が求められるモータースポーツだからこそ、その高度な技術が市販車の設計・生産で効果的に生かすことができる、という言い方をするべきなのだろうが、当時の世評は、たとえば大手新聞やTVをして、モータースポーツと暴走行為は同意語という時代だったから「波風を立てずに」という消極策しか選択肢はなかったわけである。

Vol.2、Vol.3、Vol.4に続く

バイオレット 710(1977年サザンクロス・ラリー優勝車)など【写真4枚】



初出:ノスタルジックヒーロー 2013年12月号 Vol.160(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

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text : AKIHIKO OUCHI/大内明彦 photo : MASAMI SATO/佐藤正巳

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