レースでのテクノロジーが市販車にフィードバックされた一つの例とは? 日野からダットサンへ|チャレンジし続ける「サムライ」魂 Vol.3|ピート・ブロック インタビュー

SCCAレース参戦初年度、Dプロダクションレースにてパシフィックコーストディヴィジョンのタイトルをもたらしたドライバー、フランク・モニースと、フラッグを手にして、ビクトリーランを行うピート・ブロック。特徴的なカラーリングとフロントのチンスポイラー(ブレーキ冷却ダクト)は、このマシンからすでに採用されているのだ。

       
【チャレンジし続ける「サムライ」魂/ピート・ブロック インタビュー  Vol.3】

日野からダットサン(日産)へ

 日野でのレース活動が1967年で終了すると、翌年からは日産でのレース活動を始めることとなるが、これは、日野でモータースポーツ活動を担っていた宮古さんが尽力をした結果だ。

 「宮古さんは、東大時代の友人だった日産の社長を紹介してくれ、そこから日産とのパートナーシップがスタートすることになりました」

 ただ、日産でのレース活動のスタートは、必ずしも順風満帆とはいかなかったようだ。

 「当時の北米日産は、SR(L)311は戦闘力が低いとの判断でした。でも私はやってみなければわからないと考えていました。そこで、私は直接、日本の日産本社に掛け合い、2台のSR(L)311を手に入れ、レースに持ち込みました。北米日産は、レース当日まで、その事実を知りませんでしたので、非常に驚いていました。

 結果的にわれわれは、1年目でSCCAパシフィックコーストレースで勝利を果たしたので、北米日産の連中は大いに落胆したことでしょう」

「ブレーキ冷却ダクト」

 ところで、アルファロメオやトライアンフ、ポルシェなど強豪がひしめく中で勝利を収めることができたのはなぜか、その理由をピート・ブロックはこんなふうに説明してくれた。

 「それぞれの地区予選レースで3位以内に入らないとレースには出られないレギュレーションでした。プロダクションレースは、上位8台が1秒以内に入る接戦でしたが、そうした中で勝利を収められた要因のひとつとして、エアロダイナミクスの成功があったと思います。レースのレギュレーション上は、ボディ下部にスポイラー類を付加することは認められていませんでした。そこで私は、フロントにエアダム形状のブレーキ冷却ダクトを製作しました。これでタイムが1秒から2秒違いましたから、その効果は十分にあったと考えられます」

 BREのマシンにおいて、一つのアイコンともなっているチンスポイラーは、空力パーツではなく、「ブレーキ冷却用のダクト」として利用を認められたものだったのだ! 

 参戦初年度となる1968年、1969年はSR311で、Dプロダクションクラス優勝を果たし、翌1970年からは、マシンを240Zへとチェンジ。

 「最初、S30でのレース活動はZ432で行うつもりでしたが、S20型は、高回転でパワーを稼ぐエンジンです。非常に魅力的なエンジンでしたが、レースでは低回転からトルクのあるエンジンが必要でした。また、排ガス規制も厳しくなっていましたから、結局アメリカではS20型を搭載した432は発売されませんでしたので、ベースカーに240Zを選ぶことになりました。ただ、最初のころのL型エンジンは、カウンターウェイトが付いてなかったので、6000rpmを超えると振動が激しくなり、レースで使うエンジンとしては難しかった。そこで、日産へ提案し、L型エンジンにカウンターウェイトが備わることになりました。それからは問題はなくなりましたが、これは、レースでのテクノロジーが市販車にフィードバックされた一つの例でもあります」


1970年から2台の240Zを用意し、Cプロダクションレースに参戦したBREチーム。手前のカーナンバー46がジョン・モートンのマシン。奥のブルーのマシンは、ジョン・マッコムのマシンだ。写真は71年フェニックスのサーキットで撮影された1枚で、この1971年も、前年同様の態勢で、Cプロダクションレースに参戦し、見事2連覇を果たすこととなる。


 結局、240Zでは、1970年、1971年にCプロダクションレース優勝を収めることとなる。連覇を果たすマシン製作上のポイントはどこにあったのであろう。

 「レースでは、エンジンパワーはもちろんですが、クルマが浮いてしまってトラクションがかからなければ意味がありません。ですから、エアロダイナミクスはとても重要なのです。そして、技術力、さらにはレースの意味を理解してくれる会社トップがいることも非常に重要です。日本の自動車会社は、米国で成功を得るためレース活動に費用を費やし、エンジニアリングを向上させてきました。こうした活動に大きな理解を示してくれた片山さんの存在が非常に大きかったと思います。北米日産は、この240Zの活躍により、北米でのZの販売を大きく伸ばし、前年7位から1位へと躍進したのです」




 1970年から2台の240Zを用意し、Cプロダクションレースに参戦したBREチーム。手前のカーナンバー46がジョン・モートンのマシン。奥のブルーのマシンは、ジョン・マッコムのマシンだ。写真は71年フェニックスのサーキットで撮影された1枚で、この1971年も、前年同様の態勢で、Cプロダクションレースに参戦し、見事2連覇を果たすこととなる。

Vol.4に続く

1971年も、前年同様の態勢で、Cプロダクションレースに参戦し、見事2連覇を果たすこととなるど【写真6枚】



初出:ノスタルジックヒーロー 2014年2月号 Vol.161(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

チャレンジし続ける「サムライ」魂/ピート・ブロック インタビュー(全4記事)

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text : NOSTALGIC HERO / 編集部 photo : AKIO HIRANO / 平野 陽

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