<2>「ターボは異次元なエンジンだった」エンジニア自身が語る日産初のターボとは?|技術の日産を支えたエンジン屋烈伝【石田宜之】Vol.2

L20ET型エンジン。ターンフロー構造のヘッドを持つため、吸排気がエンジン左側に集中する特徴があった。

       
【エンジン屋烈伝 石田宜之 Vol.2】

Z型エンジンのみに専念していたわけではなく、途中、とりまとめの業務にも就いたりと、なかなか忙しい新人エンジニアの石田だったが、Z型エンジンの業務が終了すると次に手掛けたエンジンがL型だった。

 新世代の日産を背負うエンジンとしてL型が登場したのは1960年代中盤のことだった。4気筒、6気筒合わせ、1300cccから2800ccまでをカバーする万能のエンジンだった。また、ローコストで信頼性も高くメンテナンス性に優れ、乗用車用としては優等生のようなエンジンだった。

 しかし、それはあくまで1960年代、1970年代前半までのことで、排ガス規制をクリアし、高性能化を目前に控えた時代にあっては、いささか旧式なエンジンとなっていた。このL型の近代化改修を任されたのである。

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 はた目には、基本設計がこれほど古くなれば、手を入れるにしても限界があるだろうし、手を入れたとしてもどれだけ保たせることができるか、はなはだ疑問が残るところである。

 と言って、エンジン開発には大きな予算枠が必要で、日産自動車といえども一朝一夕で予算を捻出するのはきびしだろうとも思えてしまう。

「L型系は、基本設計が古かったため、時代について来られない部分が多くあった。重量も軽くしたいし、燃費もよくしたい。よりスムーズで力強いトルク特性にもしたいし、エンジニアの立場からは、改善したい項目がいくつかあるわけです。もちろん可能なことはすべてしましたが」

 このエンジンがY430セドリック/グロリア(マイナー後)やC210スカイラインに積まれ、後にR30スカイライン用として改良型+ターボの仕様が用意された。

 ただ、悔しさもあったという。ちょうど改良型のL型エンジンを手掛けているタイミングで、トヨタから軽量コンパクトな6気筒エンジンが発表されていたからだ。新型車「クレスタ」に積まれた1G‐EU型エンジンである。

 このエンジンは、それまでトヨタの主力を努めてきたM型6気筒に代わる新世代エンジンで、出力/トルク面での性能引き上げというより、軽量・コンパクト化や燃費性能、音・振動といった実用性能の向上に主眼を置いたエンジンで、まさしくL型のライバルとなるポジションに位置していた。

 それだけにL型系を任された以上は、という強い思いもあった。

「430セドリック/グロリア・ターボ用のL20ET型は、改良前のL20型にターボチャージャーを装着したもので、これは別の人が担当していました。その次のC210スカイライン・ターボのときに、私がL型の担当となったわけです。L型エンジンそのものは古いタイプで、430用から圧縮比を上げました。430は7.3でしたがC210では7.6として、低速トルク特性の改善を図りました。この改良はカタログ数値に表れない、いわば見えない部分での進化なんですが、向上幅は小さくても、燃費まで含めてプラスの方向にもっていくことができます。もともと改良は、小さなことを無数に積み重ねることで進化していくものですから、とにかく自分でできる範囲のことはよくしておきたかったんです」

 能力的には可能だったにもかかわらず、物理的、資金的な理由で実現できなかったことに対し、エンジニアの心中というのはいったいどんなものなのだろうか? トヨタ1G-EUを横目で見ながら、自分が手掛けるからには少しでもよくしておきたいと、C210スカイライン・ターボに「見えない改良」を加えた石田の姿勢に、エンジニアの良心を見た思いがする。

 こうした意味では、エンジン本体に改良を加え、ターボ過給のテクノロジーを進化させ、エンジン自体をECCSによる集中制御をかけたR30スカイライン用のL20ターボは、名称こそ430セドリックと同じL20ET型だが、走らせれば一段から一段半レベルを上げた、まったく別物のエンジンである、と石田は自負する。

「それにしても、430ターボの認可についてはおもしろかったですね。とにかく動力性能の向上をうたうことはタブーで、絶対に認可がおりなかった。日産も最初からセドリックでターボの認可をとろうとは考えていなかった。Zやスカイラインといったスポーツ系のモデルで打診したことは、容易に想像してもらえることだと思います。しかし、こうしたモデルではダメだと。それで皆さんがよくご存じのように、ターボの装着によって燃費性能が向上した、という言い方にしたわけですね。これで初めて運輸省(現・国交省)の認可がおりた。同じ高性能エンジンでも、4バルブDOHCはまったく問題がなかった。DOHCというエンジン自体が、既存のメカニズムして市販化されていたからです」

 いまだに笑い話となるターボの認可エピソードだが、前例があればOK、あるいは燃費、環境性能に貢献するという大義名分が通れば、それこそ動力性能一辺倒のメカニズムでも、認可されてしまう一種の交渉術を見た思いがした。また、ここまであからさまな方法でも(見ようによっては茶番劇なのだが)、筋を通せば認可するという当時の運輸省のスタンスは、排ガス規制で疲弊しきった自動車市場に、魅力ある商品を投入して活性化を図りたいという通産省(現・経産省)の視点にもつながってくる。

 実際のところ当時の新車市場は、排ガス対策のためクルマが重くなり、鈍重な動きとなってしまったばかりか、吸排気のデバイスや制限によってエンジン出力やレスポンスに低下があり、新車の魅力、価値が大きく下がっていたのだ。当時すでに一国の経済状態を左右するまでに成長を遂げていた自動車産業を、自動車は趣味の物といった視点だけで片づけることが到底できなくなっていたのである。

 おもしろいのは、当時のターボチャージャー観である。理詰めのエンジニアが、ターボに対してどんな印象を持っていたのか、これを聞いてみたかったのである。

「正直、知っているターボカーといえば、BMWの2002ターボとポルシェの930ターボぐらい。NAエンジンとまったく変わらないドライバリティを持つ今のエンジンと比べると、またく異次元のエンジンでしたね。当時、知人が2002ターボを持っていたので乗ってみましたが、踏み込んでも反応がなく、おやっと思っているとドカーンとくる。これがターボというものか、という感じでしたね(笑)」

 後に、量産車エンジン世界最強と言われたR32GT-R用のRB26型エンジンを設計する石田だが、この当時はまったくの未体験ゾーンだったというのがなんともおもしろい。


1976年4月、日産自動車に入社。すぐに座間工場で新人研修に入る。配属部署はサニーの組み立てライン。1976年7月、鶴見機関設計部に配属。1991年まで在籍。この間、Z型、L型、CA型、VG型、RB型、RB26型、VQ型エンジンの設計に携わる。1992年1月、スポーツエンジン開発センター(追浜)に異動。日産一連のレーシングエンジンを手掛ける。


S130フェアレディZ用L20ET型エンジン。Z用L20ターボは石田の改良型エンジンだ。黒の結晶塗装によるカムカバーがターボを物語る。


S130フェアレディ280Z用L28E型エンジン。


810ブルバード用L18E型エンジン。


810ブルーバード用L20E型と見比べると4気筒と6気筒でエンジン全長の違いが分かる。


高熱を発するタービンとエキゾーストマニホールドが燃料系と吸気系に隣接するのは望ましいことではなかった。


L型系の担当となった石田はC210スカイライン搭載時に圧縮比を上げる小改良を加え実用性能の引き上げを図っていた。


Y430セドリック。L型エンジンは汎用性が高く、基本構造がシンプルで信頼性が高いことから長期にわたって使われることになったが、そのことが新エンジンの開発を遅らせる原因にもなっていた。

掲載:ノスタルジックヒーロー 2013年2月号 Vol.155(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

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text & photo:Akihiko Ouchi/大内明彦

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