<1>L型からRB26型まで。日産の数多くのエンジンに関わった男|技術の日産を支えたエンジン屋烈伝【石田宜之】Vol.1

1989年、発売直後のR32GT-Rと。石田といえばどうしてもRB26型エンジン生みの親というイメージが強い。これほどのエンジンだけに、仕方がないといえばそれまでだが……。

       
【エンジン屋烈伝 石田宜之 Vol.1】

サラリーマンに人事異動はつきものだ。場合によって本人の意志とは関係なく、まったく知識、経験のない部署に配属替えとなることもある。

 その一方で、専門知識を生かし、またそれが評価されひとつの部署に長く留まることもある。まあ、下世話な言い方になるが、出世だけが望みの人にとっては職種、部署に関係なくポジションの昇格がすべてという価値観になるようだが、専門職にある人の場合はその特殊能力により、生涯その職に就いていたいという思いが強いようだ。

 石田は1976年に日産に入社して以来、そのキャリアの16年近くをエンジン設計に費やし、L型,ZL型、CA型、VG型、RB型、VQ型と日産主力エンジンの大半を手掛けた経歴を持つ。しかも、そこで過ごした時代背景は、排出ガス規制に追われる受難の時代から、性能向上を目指す1980年代序盤の回復期、さらにエンジン体系の刷新が急務となった80年代中盤の変革期、市販車ながらレース仕様も意識しなければならなかったGT‐R用エンジンの開発と、波乱に富んだ環境の中で、当然紆余曲折はあっただろうが、本人にとっては楽しいエンジン屋半生ではなかったか、と推察している。

 石田と話をしていると、根っからのエンジニア、機械好きであることが言葉の端々、表情から伝わってくる。直接聞くことはしなかったが「生涯エンジン設計の部門で満足できますか?」と質問したら、間違いなく「Yes」の答えが返ってきそうである。

 今回、新企画のエンジン屋烈伝を始めるにあたり、いちばん知りたかったことは、時代とともに変化してきたエンジンに対する要求性能と、それを実現するため探ってきた手法、工夫などだったが、もう少し視野を広げ、ハードウエアをとりまとめるエンジニア個人の思考、言い換えればソフトウエアが分かれば、なお興味深い話になるだろうと思っていた。

 それだけに、第一回目となるエンジニアは、広範にわたり一連の流れをつぶさに眺めてきた人物が適役だとも考えていた。こうした意味では、排ガス対策期に入社、最終的にはGT‐R用のRB26型エンジンまで手掛けた石田宜之という人物は、またとない個性だったのである。表現方法は悪いかもしれないが、自動車エンジンの「戦中」「終戦」「復興期」「繁栄期」を肌身をもって体験してきたからだ。

 その石田、日産に入社した動機がふるっていた。理系の大学を志した人間が、機械嫌いというのもあり得ない話だが、機械好きとなれば、やはり技術を標榜するメーカーには心惹かれるものがあるだろう。「やはり技術の日産でしたか?」という問いに、「ホンダも候補のひとつでしたが、日産なら自宅から通えるので(笑)」と通勤の便をその理由としてあげてくれた。


 まず石田が入社した1976年(昭和51年)は、まさに難攻不落と言われた昭和53年排ガス規制の実施が目前に迫り、エンジンの開発部門は一刻の猶予もならない状態に追い込まれていた。

 こうした状況で入社し、新人研修として座間工場のサニー組み立てラインに回された石田は、ここで「日産は53年排ガス規制をNAPS‐Zで乗り切る」という社内ニュースを耳にし、これが今でも記憶に残っているという。

 NAPS‐Zとは、ニッサン・アンチ・ポリューション・システム‐Zの略で、ツインプラグ方式による急速燃焼システムを持つZ型エンジンと酸化触媒の組み合わせにより、53年規制のクリアを目指した日産独自の排ガス浄化システムである。

 どのメーカーも、なかなか効果的な解決方法が見いだせず試行錯誤を繰り返していた時期だけに、日産がNAPS‐Zで53年規制クリアのメドが立ったという発表に接した折には「なるほど、そうなんだ」という印象を持ったようである。

 ところが、新人研修を終え鶴見にある機関設計部に配属されてみると、なんと担当エンジンはZ型。「座間工場で耳にしたシステムをまさか自分でやることになるとは」と思ったそうだ。

 ここで1人の若き天才エンジニアが突然閃いたように解決策を導き出せば、それこそ映画、ドラマ、劇画の世界になるのだが、現実は日々の研究技術を積み重ねて対処する堅実なプロセスだったという。

 それよりも、「とにかく排ガス規制のクリアだけを考えていたので、そのほかの要素はすべて後回しにされていた」と振り返るように、排ガス規制値クリアのため代償となった性能要素が気がかりだったという。

 53年排ガス規制値で、最も達成困難と言われていた要素が窒素化合物の低減だった。日産は、急速燃焼によって窒素酸化物の低減をもくろみ、この解決策をツインプラグ方式に見い出していたが「燃焼速度が速いとエンジン音がうるさくなる。これをどうにかしたかったのだが、とてもそんな余裕はなかった」と振り返る。

 こうした話をしながら、ふとホンダが実現したCVCC方式をどう捉えていたかが気になり、率直なところを聞いてみることにした。

「あのタイプのエンジンは、ホンダだけでなく日産やトヨタもやっていましたが、コスト、性能、生産性、メンテナンス性などから考えると、結局は触媒による後処理方式のほうがよかったですね」という結論だった。

 しかし、排ガス規制への対応は、ネガティブなことばかりではなかった。むしろ、その後の時代に続く高性能エンジン開発に向けての基礎研究に置き換えられる時期でもあったのだ。

「燃焼解析技術などは大きく進歩しましたね。というより、それまで体系立ったものがなにもなかったと言ったほうほうが正解でしょう。物を改良するにしても、こうしたら良くなった、ああしたら悪くなった、という断片的なもので、ひとつのロジックとして整合性を持つものがなかった。それが排ガス規制に直面したことで、極端に言えば白紙状態からの再スタートとなり、それがむしろよかったと思う」

 こうした話を耳にするたび思うのだが、物事は悪いときに進歩があり、順調なときに落とし穴が待っている、こんなことをつくづくと感じさせられてしまう排ガス規制だった。



1976年4月、日産自動車に入社。すぐに座間工場で新人研修に入る。配属部署はサニーの組み立てライン。1976年7月、鶴見機関設計部に配属。1991年まで在籍。この間、Z型、L型、CA型、VG型、RB型、RB26型、VQ型エンジンの設計に携わる。1992年1月、スポーツエンジン開発センター(追浜)に異動。日産一連のレーシングエンジンを手掛ける。


キャブレター時代のL20型SUツインキャブ仕様。スカイラインGT(GC10系)やフェアレディZ(S30系)時代の仕様である。


L系エンジンは汎用性が高くピストンとクランクの組み合わせで排気量を自在に変えることができた。


写真は230セドリック/グロリア時代のL26型。


昭和53年排出ガス規制をクリアしたNAPS-ZによるZ型エンジン。


L型エンジンの腰下をベースに吸排気効率に優れたクロスフロー構造(ペントルーフ型と半球型の中間形状による燃焼室を持つ)のヘッドにツインプラグ方式を採用し急速燃焼による窒素酸化物の軽減を図ったエンジンだ。


L型をベースに排出ガス規制のクリアを狙ったZ型エンジンだったが、ターボ化することで性能面の弱点を補っていた。


掲載:ノスタルジックヒーロー 2013年2月号 Vol.155(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

L型、そしてL型をベースにしたZ型など、全ての【写真8枚】を見る

text & photo:Akihiko Ouchi/大内明彦

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