【アメリカ発!ニッポン旧車の楽しみ方|47年間共にしたメキシコ製ダットサン Vol.2】
このメキシコ製ダットサン1600を親子で乗り継いでいるマリオ一家。
現在のオーナーであるマリクルースさんの父である、マリオ・ラリオスさんは当時、石油関係の仕事に就いていた。離れて暮らす両親に、毎月の給料から仕送りをする生活。そんなある日、実家へ帰ってみると、なぜか新車が止まっていた。両親はどちらも運転免許を持っていなかったのにだ。
なんでも、仕送りのお金でラリオスさんの為に買ってくれたという。
1973年当時のメキシコではダットサンの知名度はまだ高くなかったのだが、母親のアリシアさんが見た目を気に入り、選んだのだった。
1976年にロサルバさんと結婚したマリオさんは2人の地元だったグアダラハラ市(1970年時点で150万人都市。メキシコ屈指の歴史と文化の町で、京都市と姉妹提携している)に新居を構えた。新たに得た政府厚生省の仕事は、首都メキシコシティでの単身赴任。そんな新婚生活を支えるのに、このダットサンが大活躍した。毎週往復1000kmの道のりを1年間通い続けても、ダットサンは壊れそうな気配すら見せなかった。そして2人は次第にこのクルマを信頼するようになった。
そして購入から47年、このクルマに頼ってきた家族の誰もが、このクルマに関するエピソードにはことかかない。
ロサルバさんが姉のレティシアさんと夜中にこのダットサンを運転していると、なぜか警察に追いかけ回された。「メキシコでは、おまわりさんなんて信用できないのよ」というロサルバさんは、緊張しながらも観念してクルマを止めたという。そして、窓からのぞき込んできた警察官が口にした言葉は「このクルマ、ゆずってくれないか」だった。それで2人の緊張が一気に緩んだ。
自宅のあったグアダラハラ市が大雨に見舞われたときに、これもロサルバさんが経験したこと。町のどの道も1m近く冠水してしまった。そんな中、路肩に避難していた他のクルマを尻目に、ドアの真ん中まで水につかりながらも、このダットサンは冠水した道を何事もなかったかのように走り続けた。
2人娘のエリザベスさんとマリクルースさんの学校の送り迎えもダットサンの日課だった。自家用車などまだ少なかった頃のことだ。ロサルバさんは学校行事に協力するために、娘2人のクラスメートも合わせて生徒13人(!)をダットサンに乗せて、学区内を廃品回収に回った。行く先々で集まった古新聞をトランクと屋根に積み込んで、ダットサンは走り続けた。しかしさすがにこのときだけは、リアシートのスプリングが耐えきれずに壊れたそうだ。
毎週日曜の教会礼拝にも家族でクルマで出かけた。厚生省の役員に立候補したマリオさんの広報活動でも市内を隅々まで走った。こうして縦横無尽に街を走り回る様子は、グアダラハラ市内で有名になった。当時まわりはアメ車やルノーやビートルばかり。そんなクルマの中でひときわ目立つダットサン。
行く先々で目撃され、「どこにいたか、みんなに分かってしまうのよ」と、ロサルバさんは当時を懐かしんだ。
そんな元気なダットサンの様子を示すエピソードも。マリオさんは「当時日産ディーラーで働いていたバルキさんという日本人に、『展示してある新車のどれでもいいから交換してやる』と言われたこともありました」
「ネバー、ネバーブロークン(ただの一度も壊れたことなんかありません)」と繰り返すマリオさん。「ガソリンを入れてオイル交換をするだけ。それだけで、一度も立ち往生したことなんかない」という。
そしてダットサン1600は、はじめのオーナーだったマリオさんから、娘のマリクルースさんに譲られた。
しかし、マリクルースさんはアメリカに移住し、住み始めた最初の5年間はメキシコの自宅にダットサンを放っておいたという。
だが2011年にアメリカに持ってくることを決心。その理由をマリクルースさんは「3年前メキシコで、3つ年上だった姉のエリザベスを亡くし、もうメキシコへは戻りたくないと思ったんです」。父から譲り受けていたクルマもアメリカへ持ってきて、もう故郷へは帰らない決心をしたのだ。
娘のそんな決心を知り、マリオさんは帰国した際に、久しぶりにエンジンをかけてみることにした。バッテリーを交換してセルを回すと、なんと一発でエンジンがかかったそうだ。集まっていた近所の人たちもこれにはビックリ。ただしその時からスピードメーターは動かなくなってしまっていて、トリップメーターは今でも「0」のままだ。
家族みんなでこのダットサンを大切にし、ダットサンとの思い出を大切にしてきた。左から、マリオ・ラリオスさん、ロサルバさん、マリクルースさん、カミラちゃん、そしてマリクルースさんの叔母レティシアさん。ハチャメチャともいえるこのクルマでのさまざまなエピソードを、みんな楽しそうに語ってくれた。
その年のクリスマスにはメキシコの家から家族でドライブ。そしてメキシコ国内の最後の街、ティファナからアメリカへの国境越えの時のこと。不法入国が後を絶たないこの国境地帯は、近年、麻薬問題で警備が一段と厳しくなっている。フリーウェイ上に設けられた大規模な入国検査場では、国境警察にクルマの中身までも引きはがされるほどの検査を受ける人もいるのだ。
何の引け目もなかったラリオスさん一家は、古いクルマに言いがかりでも付けられたらかなわないと、疑われそうなそぶりは見せず、クルマの列の中で準備して待っていた。そして順番が来た。すると検査員は書類をサッと見ただけで「行ってよし」と言った。「よかった」と一瞬の安堵、そしてすぐに「それ行け、止まるな!」。もし呼び戻されでもしたら厄介だから、早々にフリーウェイのクルマの波に紛れ込んだ。
カリフォルニア大学医学部の小児科で、心臓カテーテル技師として活躍するマリクルースさんは、メキシコで登録されているこのクルマを、アメリカで合法に維持する方法を現在調べている。できることなら生まれ育ったメキシコのナンバープレートをずっと付けておきたい。その方法が見つかるまでは、カーショーなどの特別な機会だけにしか乗らないようにしているという。
家族みんなのそれぞれの思い出を刻み込み、ともに生きてきたこのダットサン1600。高性能でクセのないフォルムがゆえに人気車となった510ブルーバード。この名車の意義は、クルマを必要とする人の毎日の足として、47年経った今でも走り続けていること。その堅牢さと信頼性を武器に、オーナー一家のためにクルマとしての使命を果たし続けていることなのだ。
家族の他のクルマを差し置いて、ダットサンがいつもガレージを占拠している。脇に立つマリクルースさんの持っている大きなトロフィーは、アメ車のショーに紛れ込んだ時に思いがけず「オリジナルカー賞」を取ったときのもの。
塗装と一緒にメキシコで仕上げられたきれいな内装。でも「このビニールレザーの質が気に入らないの。私はこういうのには結構こだわるのよ」とマリクルースさん。シートにはリクライニング機構がなく、前後のスライドのみ。キーイグニッションはステアリングコラムの左側にあった。室内のヒーターがないのは「メキシコは暑いからいらない」のだそうだ。アメリカに来てからは「冬にはたっぷり着込んで乗っているわ」とのこと。
ブレーキマスターシリンダーには、「LICENCIA TOKIKO」の文字があった。メキシコ現地にてライセンス生産された部品だと思われる。
トランスミッションに近い部分に「HECHO EN MEXICO(メキシコ製)」の文字の入ったマークが見えるクランクケース。その前方の部分には「NISSAN」とも書かれていた。
フロントのウインカーレンズには「IKI Made in Japan」の文字があり、日本製であることが分かった。ポジションランプのレンズは、長年さらされた熱のために変形していた。
姉のエリザベスさんが好きだったゴールデンゲートブリッジを走る。メキシコで生まれた40年前の日本車が、今こうしてアメリカの地を走っていることを思うと、とても感慨深い。華奢に見えたその車体は、大きなクルマに囲まれてむしろよく目立っていた。
掲載:ノスタルジックヒーロー 2013年2月号 Vol.155(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)
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