「走る実験室」を標榜するバイクメーカーの偉大なる設備投資だった 「鈴鹿サーキット」|ホンダと鈴鹿が共に歩んだ足跡 Vol.1

68年9月の鈴鹿1000㎞スタート風景。トヨタ7、日産R380、ポルシェ910、ダイハツP5のグループ7カーやプロトタイプが顔を連ね、またメーカー系クラブマンチームからも多数の参戦があり、鈴鹿の定番イベントとして長い歴史を刻んでいくことになる。

       
1960年代初頭といえば、まだ日本のモータリゼーションは黎明期を迎えたばかりで、やっと国産乗用車の頭数が揃いつつある時期だった。もちろん「モータースポーツ」という言葉などなく、レーシングカーが「競争自動車」と呼ばれ、日本とは無縁の遠い海外での存在と思われていた頃である。

 そんな時代に「将来的にモータースポーツは自動車産業に対して重要な役割を果たすことになるから、その育成・発展のためには恒久的な施設、サーキットが必要だ」と独自の価値観を示し、鈴鹿サーキットの建設に乗り出した本田宗一郎とホンダという企業のバイタリティーには驚かされてしまう。

 当時のホンダといえば、戦後に急成長を遂げたバイクメーカーで、世界グランプリでの活躍を自社の高性能イメージに直結させた革新的企業として知られていた。そのホンダが、2輪車でトップに躍り出た勢いを駆り、4輪車市場への進出を企てる最中でのサーキット建設プロジェクトだった。
 世界グランプリでの活躍は、ホンダにとってものすごく大きな後押しとなっていた。自転車に小型の原動機を組み付けて身を起こした零細企業が、一躍世界のトップに立てたのは、モータースポーツでの活躍があったから、という認識が強くあったようだ。

 まさに「2番ではだめ」なわけで、世界のトップを目指して技術を研鑽した結果、ホンダは2輪車メーカーとして不動の地位を得たわけである。こうした意味では、ホンダは鈴鹿サーキットをレーストラックとしてだけではなく、開発テストの場としてもその利用価値を見込んでいたのである。
 ところで、鈴鹿サーキットのレイアウトだが、本田宗一郎の「大切な田をつぶすな」の一声で造成の楽な平地の使用を避け、世界的にもあまり例のない細長い8の字状になった。丘陵地帯のすそ野をはうようにしてデザインされた結果のことだという。

 しかし、前半をテクニカル系、後半を高速セクションとした独自のコースデザインは、ここを走ったドライバーが口を揃えて「奥が深く攻めがいがあり、走って楽しいサーキット」と言うほど完成度の高いものだった。
 このコースデザインを考案したのは社員籍の塩崎定夫とオランダ人デザイナーのジョン・フーゲンホルツ。ホルツはアドバイザー的な立場だったというが、彼の手掛けたコースはハラマ、ゾルダー、ホッケンハイム(スタジアムセクション)、ニベルとグランプリサーキットがほとんどで、鈴鹿がその手始めのコースとなっていた。

 それにしても、いかに2輪の世界で成功したからとはいえ、バイクメーカーが国際級サーキット、それもグランプリ級のコースを造ってしまうのはなかなか大胆な企画で、これを乗り物に的を絞った遊園地施設と抱き合わせ、集客や将来のレースファン育成に結び付けてしまうあたりはホンダならではの発想力だった。
 コースの完成は1962年9月。工事の着工が前年6月だったから、1年3カ月の工事期間を要したことになる。11月にこけら落としとなるバイクの全日本選手権を開催。そして1963年5月に日本で最初の本格的な自動車レース、第1回日本グランプリを開催するわけだが、この時期は別の角度から見ると、ホンダが特定産業振興臨時措置法案(通称、特振法案)の成立の是非により、自動車市場への進出が危ぶまれていた時期でもあった。

 要は、貿易の自由化や資本の自由化により日本企業がいたずらに疲弊することを避け、業種に応じて生き残るべき優良企業を選別しようという通産省(現・経産省)の提示による一種の保護政策案で、結果的には審議未了のまま1964年に廃案となったが、仮に施行された場合「お前のところは自動車メーカーとして不適格なので自動車を造ってはならぬ」という専横的な事態が起こり得たのである。

 結果的に廃案となったため、ホンダとしては事なきを得たが、仮に成立したとすると、4輪車メーカーとして活路を開くためには生産実績や4輪車事業に関する貢献度を示すことが必要不可欠となるわけで、ホンダ初の4輪自動車T360の発売(1963年8月)や国内全4輪メーカーを巻き込んでの第1回日本グランプリの開催は、すべてこの時期と符号することを再認識しておいてもよいだろう。

 今さら改めて言うまでもないが、本田宗一郎は優れた技術者であったのと同時に、第一級の政治家でもあったわけである。


1963年の第1回日本グランプリのメインレースとなった国際スポーツカーレース。運動性能に優れた1.6Lのロータス23がフェラーリ250GTやアストンマーチンを抑えて総合優勝を勝ち取った。ドライバーは後のロータスF1ディレクターを務めるピーター・ウォー。


ツーリングカーレース1600〜2000ccクラス。クラウン、セドリックの戦いだったことがなんともおかしい。


1968年9月の鈴鹿1000kmスタート風景。トヨタ7、日産R380、ポルシェ910、ダイハツP5のグループ7カーやプロトタイプが顔を連ね、またメーカー系クラブマンチームからも多数の参戦があり、鈴鹿の定番イベントとして長い歴史を刻んでいくことになる。


ホンダRA300をドライブするジョン・サーティーズ。ホンダは第一期活動時代に2勝を挙げるが、1.5L時代と3L時代でそれぞれ1勝ずつ。このRA300は1967年のイタリアGPでF1史上に残る最僅差の優勝劇を演出。開発コースとして鈴鹿サーキットの存在意義は相当に大きかった。


1971年5月の鈴鹿1000kmスタート風景。変則ル・マン式スタートである点に注意。この頃の1000kmは、まだ開催時期が流動的で現在のように夏の風物詩という位置付けにはなっていなかった。メーカーの純レーシングカーが撤退し生産車のTS/GTSによる争いとなっていた頃だ。

掲載:ノスタルジックヒーロー 2012年12月号 Vol.154(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

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text:Akihiko Ouchi/大内明彦 photo:Akihiko Ouchi/大内明彦

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