「スカイライン神話に、ひとりの男がいた」スカイラインの親となった一人の技術者|スカイラインを愛した男 櫻井眞一郎氏を偲ぶ Vol.4

87年秋の東京モーターショーに出品されたニッサンMID4の横に立つ櫻井。開発途中で櫻井は入院し、古平勝が代わって開発を担当した。

一人の技術者であった櫻井が有名になったその理由。

スカイラインの宣伝に登場することとなった経緯を知る人はまず居ないだろう。

   櫻井を宣伝に起用したのは日産プリンス企画部宣伝課課長の細越高敏。C10スカイラインが発売されたあと、1969年7月、細越は反対を押し切り早速新しいスカイラインの宣伝に着手した。

 まず、櫻井のいる荻窪の設計課を訪問した。櫻井の話を聞いた細越は当時三田にあった会社に確かな手応えを感じて帰ってきた。スカイラインの宣伝を担当していた広告代理店のライトパブリシティの秀男(アートディレクター)は、櫻井から開発に対する姿勢を細かに聞き出し、「スカイライン神話に、ひとりの男がいた」という名コピーを考え出した。

 櫻井を宣伝に起用することには、社内の反発もあったが、細越はそれがスカイラインの販売に貢献するなら、多少の反発は仕方がないと判断した。役員の外山保も全面的にその考えを支持し「櫻井は強い人間だからその反発に耐えられるはず」と考えた。櫻井が宣伝に起用されたのにはこんな舞台裏の話があったのだ。



 また桜井にとって欠かせないのがレースの話だろう。

 櫻井は市販車とレーシングカーの両方を担当しており、ある時はサーキットでレーシングカーを走らせながら、片隅の公衆電話から生産ラインに指示を出すほど忙しかった。

 1968年5月3日に開催された68日本グランプリで北野元が駆るニッサンR381シボレーが優勝しているが、その陰には多くの苦労があった。

 日産のGRX型エンジンの開発が間に合わず、急きょ櫻井が渡米、ドン・ニコルズ(在日レーサー&車輸入業)のルートでムーンチューンのシボレーエンジンを購入した。パワー不足のエンジンのマイナスを何かで補わなければならない。そこで考えられたのが二分割ウイング。直進時は左右同じ角度だが、コーナリング時は内側のウイングが下向きになり、スピードを落とさせ、車体のロールを少なくするという卓抜なアイデアを思いついた。

 櫻井はこのアイデアを弟子の丹羽に話した。そして2枚羽根の設計を命じた。櫻井は生産車のスカイラインも見なければならなかったので、細部の設計は丹羽に頼んだが、どうやっても羽根が左右一緒に動いてしまい、丹羽にはとてもできそうになかった。

 丹羽は半ばあきらめながら悪戦苦闘していると、櫻井が進行状況を見にやってきた。櫻井はじっとマシンを見ていたが、その場は何も言わず帰って行った。

 その翌々日の朝だった。櫻井は再び丹羽のところにやってきて、メモを示しながら略図を描いた。「こうすればサスペンションと連動してウイングは別々に動くよ」とだけ言って、その場から去っていった。

「櫻井さんはすごい人だな」と、あらためて丹羽は思った。

実は櫻井はこのことを2日間考え続けていたのだ。その日の夜、夢でアイデアを思いつき、忘れないうちに寝床の横のメモに書き取ったものだった。

 丹羽の設計した2分割ウイングは、最初正常には動かず、ドライバー達を悩ませたが、2分割ウイングは次第に熟成され、効果を発揮しだした。

 その頃、櫻井一家が小学校の体育館を借り、バスケットに興じていた。
 そして櫻井は左足のアキレス腱を断裂。だが、櫻井は「ちょっと足がつったようだ」とゲームを続けた。その後、みんなで飲みに行った。夜中では病院にも行けない。寒気がしたので無理やりお湯に浸かった。翌朝、荻窪病院に行くと、医者から散々叱られた。
当然すぐ手術。
入院中も部下が書類や図面を持ってきたが、師長が部下の入室を禁じた。櫻井は強引に退院して、10日後会社に出た。ギプスをはめながらニッサンR381のクレイモデルを削るという荒療治(?)をした。その努力もあり、68日本グランプリでニッサンR381が優勝できたのだ。


サスペンションと連動した画期的な2枚羽根を採用したニッサンR381に乗る櫻井。本番にはグループ7仕様のオープンに改良された。


 ここからはスカイラインの市販車の話に戻る。

 6代目R30スカイライン開発の時、デザイナーや設計者に対してイメージリハーサルが行われ、コンセプトストーリーが櫻井から説明された。

 ——場所は日光湯元温泉の瀟洒なホテル。男と女は待ち合わせをする。男は仕事があるので一緒に行けない。女は列車で先に行く。夜半に仕事を終えた男はスカイラインに身をゆだねて女の待つ日光へ急ぐ。

 そしてストーリーはクライマックスに達するシーンが展開される。戦場ヶ原を走り抜けるスカイライン。夜の闇、折しも戦場ヶ原は猛烈な嵐の中。心を分かちあえる恋人の待つ目的地に、ドライバーのはやる心を抑えて突き進むスカイライン。その時、地を切り裂くような雷鳴とともに強烈な稲妻が光る。その稲妻に浮かび上がる鮮明なスカイラインのシルエット——

 この「戦場ヶ原ストーリー」は櫻井流の独特の新型車の基本的な方向性を示す試みであった。

 ここからはスーパースポーツカーやオーテックジャパンの話になる。

 1984年、櫻井(当時ニッサンテクニカルセンター商品開発室車両開発統括部長)は古平勝(元社内ドライバー、現アトックス代表取締役)を突然呼んだ。MID4(1987年東京モーターショーに出品されたスーパースポーツカー)を開発するためだった。まもなく入院した櫻井に代わって古平は開発全般を見ることになった。病気の癒えた櫻井から古平に突然電話があった。

「新会社のメンバーに入れてあるから」
「はい、参ります」

 その後、櫻井は古平をステルビオの開発責任者に起用した。

 1985年6月に日産は人事を発表した。石川康雄(910ブルーバードの主査)や戸田(フェアレディSのエンジンB680Xの設計者)は役員に昇格した。が、櫻井の名はなかった。

 1986年9月、櫻井はオーテックジャパンの社長に就任した。1988年8月、オーテックジャパンとザガートが共同開発したステルビオが発表された。

 その後、1994年にエス・アンド・エスエンジニアリングの取締役社長に就任。そこでディーゼルエンジンの排ガス浄化装置・デュエットバーンシステム(国土交通省認定ディーゼルNOx)・PM低減装置/東京都・8都県市指定粒子状物質減少装置)をはじめ、オーダーメイド車を中心にボディ補強剤などのパーツを開発、製造、販売を行った。

 デュエットバーンシステムは世の中に浸透する途中、櫻井は志半ばで逝去することになってしまった。

 櫻井ほど日本の自動車業界のなかで設計者として有名な人間はいない。日産プリンスの宣伝課の細越が櫻井をスカイラインの宣伝に起用したとはいえ、櫻井自身カリスマ性を持っていたことは否定できない。今後、櫻井を超える巨星が生まれることはないだろう。
(文中敬称略)



ディーゼルエンジンの排ガス浄化装置・デュエットバーンシステムの開発に力を注いだ櫻井(右)と大浦清一(エス・アンド・エスエンジニアリング代表取締役社長)。

掲載:ノスタルジックヒーロー 2011年6月号 Vol.145(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

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text & photo:Nostalgic Hero/編集部

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