「われわれ設計の意思伝達の手法は図面しかない」部下に伝えたかった哲学|スカイラインを愛した男 櫻井眞一郎氏を偲ぶ Vol.3

ケンメリ・スカイライン(C110)のエンジンルームをのぞき込む櫻井。

スカイラインの親である桜井の上司であった日村。

 彼の設計哲学から直接的に影響を受けた櫻井は『人間と対話できるクルマ作り』を目指すようになる。多分に日村の考え方と共鳴するものがあり、櫻井に引き継がれたものと言っても過言ではないだろう。

 櫻井と日村の性格の違いはなんだろうか。温厚な日村と気性の激しい櫻井。

 櫻井は部下を強烈に叱ることで有名だった。

「ゲン、ちょっと来い」

 ゲンというあだ名で呼ばれる櫻井一家の一番弟子の島田。昔、大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)に所属し、60年に弱冠20歳で完全試合をし、19勝をあげた島田太郎に由来する。

「何だ、その図面は! お前、俺の所にきて何年になる。まだこんな仕事をやっているのか、そんな馬鹿は辞めてしまえ」

 櫻井は図面上のミスや検討不十分なところを見逃さない。それも最初のうちはおだやかに鉛筆で軽く描いて直すのだが、2度、3度となると次第に表情が険しくなる。そのうち例の「辞めてしまえ」が出てくる。何日もかかって描き上げた図面は、あわれにも赤鉛筆で真っ赤に染まり、何日もかかって最初から描き直しになる。

 1959年、広島大学工学部機械科から富士精密に入社した伊藤(R31&R32スカイライン主管)も桜井学校の弟子の1人だ。配属はシャシーを担当する第4設計課。そこのリーダー格が櫻井だった。

 櫻井から与えられた課題が、ステアリングナックルの現物のスケッチ。ステアリングの動きを最後に車輪に伝えるややこしい形をした部品で、これをノギス(測定器具)1つを与えられて見取り図を作る。その形状は曲がりくねっていて図面にするのは新人にとって至難の業。

 櫻井の狙いはそれによって物を正確に表現することがいかに難しく、それがいかに大切かを教えることだった。大学院卒、大学卒、高校卒だろうが差別せず、同じように線引きを1週間させた。

 この単純作業は新人にとってきつい。精神的にまいってしまう。トレーシングペーパーの表面はざらざらしている。同じ太さの線を引こうと思うと、すぐ鉛筆の芯を削らなければならない。しかも、芯の先は扁平にしなければならないから鉛筆削りは使えない。もっぱら小刀で削って紙やすりで研がなければならない。その作業の繰り返しは、まるで修行僧のようである。

 学校を出ていっぱしの仕事をやろうと思って入社してきた新人にとって、単純な線引き作業を朝から晩までやらされるのは精神的にもひどい苦痛だ。ついつい途中で投げやりな気分にもなるが、ときどき櫻井がのぞきに来るので息が抜けない。

「われわれ設計の意思伝達の手法は図面しかないのだから、図面がいかに大切かということを理解させること。もう1つ、これから先ずっと長い仕事のなかで単純作業も決して少なくない。エリート意識のある人間は単純作業というと、とかく馬鹿にする傾向があるが、そんな仕事にも歯を食いしばって耐えることが必要だ。ごく短い期間にそういうものをたたき込むには、これが一番だ」

 とは、櫻井の言葉だが、弱い人間だったら精神的にまいってしまうだろうこの関門をくぐらなければ、櫻井学校への入門はかなわなかったのである。

そしてこの桜井の考えが精密なスカイラインを造り上げていく土台となったのである。

 1965年5月31日、日産とプリンス合併覚書調印。66年8月1日、日産とプリンスが合併した。

「合併に伴い、プリンスから田中次郎さん、私、日産から原禎一さん、水津肇さんがC10スカイラインと510ブルーバードの図面を見せ合った。ブルーバードで日産として初めてストラットを採用する計画だった。スカイラインのフロントもブルーバード同様にウイッシュボーンからストラットに変更する計画だった。ただしマクファーソン・ストラットを国民車のDPSK(CPSK)で経験していた。

 櫻井は1966年7月20日にブルーバードの図面を伊藤に見せて、『量産のメリットを出すためにこれを共用しよう。なんとかスカイラインに付くように設計変更しろ』と命令した。しかし、検討した結果、アッセンブリーでの共用はやめて、ストラット、スピンドル、ベアリングなどの部品の共用にとどめることにした。伊藤は猛烈な勢いで仕事をし、8月15日にはフロントサスペンションの組み立て図まで描き上げた。

 そして本家のブルーバードはタイヤの偏摩耗などのクレームが発売後多く起きた、スカイラインにはそのようなクレームはなく順調に販売を伸ばしていったのだ。

 ここでスカイラインに使われたマクファーソン・ストラットを、それ以前に採用していたDPSK(CPSK)について触れておく。

 1955年5月、通産省(当時)から「国民車育成要綱案」が発表された。

 この要綱案に呼応して、1958年からDPSK(FG2D型エンジン搭載)、のちにCPSK(FG4C型エンジン搭載)の開発がスタート。リーダーは田中孝一郎で、シャシーの開発も兼任した。エンジンは平井啓輔、走行実験は後藤健一が担当した。1957年8月にはFG2D型エンジンを搭載した。

 田中孝一郎は実務を櫻井に検討させた。櫻井はこの開発を通してサスペンション屋として大きな成長を遂げた。

「実によく走るクルマだった。日の目を見ずに残念だった」と櫻井は語っている。


櫻井が初めてマクファーソン・ストラットのサスペンションを設計した国民車DPSK(CPSK)。残念ながら発売されることはなかった。


掲載:ノスタルジックヒーロー 2011年6月号 Vol.145(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

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text & photo:Nostalgic Hero/編集部

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