スカイラインは名車中の名車として知られている。スカイラインのクルマとともに知られているのが、スカイラインの生みの親である櫻井眞一郎。
櫻井を特集した自動車雑誌はよく売れた。また、単行本も記録破りの売れ行きを見せた。一般誌もこぞって櫻井特集を企画した。その陰には日産プリンス宣伝部の仕掛けがあった、この大胆なキャンペーンによってスカイラインはベストセラーを記録した。
初代プリンス スカイライン。4灯式に変更されたALSI-S2型。そんなスカイラインの生みの親として知られるのが櫻井眞一郎だが、筆者は彼に嫌われたのではないかと思ってずっと悩んでいた。
4度のインタビューの後、何度かインタビューのお願いをしたのだが、スケジュールが合わないと秘書の方を通じて断られ続けていた。イベントなどでお会いしたときに『今度インタビューさせてください』とお願いすると、『秘書のNに言ってください』という返事。
何度か断られると、このクラシックカーの業界で生きていけないのではと筆者は重苦しく悶々とした日々を過ごしていた。
櫻井が亡くなってから、エス・アンド・エスエンジニアリングの営業・管理部門の本部長金沢哲夫に『私はどうも櫻井さんに嫌われていたのではないでしょうか』と聞いてみた。『あなたよりもっと個性的なすごい人がいますから、気にしなくていいですよ』と言われて、約5年間の悩みがスーと消えていった。しかし、もっと櫻井に話を聞きたいと思っても主はすでにいない。後悔しても始まらない。
だが、櫻井が筆者を避ける理由もなくはなかった。
それはスカイラインの名前の由来だ。
筆者は今まで、プリンス関係者へのインタビューで「スカイラインの名付け親は団伊能社長です。それを石橋正二郎会長が承認しました(長男の石橋幹一郎取締役が強く推したという話もある)」という証言を得ていた。また、プリンス自販の対談集にも同じことが書かれていた。
その件について櫻井にズバリ聞いたことがあったので、あらためて録音テープを聞いてみた。
「オフィシャルには団社長がスカイラインの名前をつけたことにしてほしい、と上司の日村卓也さんから頼まれまして、私はケッコウですよと答えました。公募があったので55年3月21日にスカイラインと紙に書いて出したんです。小さい会社だから社長がつけたことにしよう、ということになりました」
このコメントの意味は、実際に名前は櫻井がつけたが、上司から言われたからその時は社長ということに同意していた。だが、名付け親は自分だと言っているようだった。
さらに、櫻井の上司である日村のインタビューの中では、「社内公募でスカイラインと付けられた」と日村は語っているから、櫻井の意見を後押しする証言の1つとなった。
だが、冷静に考えてみると、いくら櫻井が優秀とはいえ26歳のただの平社員が名付け親になるとは考えにくい(案を出したことは考えられるが)。
プリンスの上層部や櫻井との話を総合すると、団社長という線が濃厚だが、櫻井の線も消しがたい。結論はグレーで真相は闇の中である。
スカイラインの名前について、筆者が唱えていた説を櫻井がよく思っていなかったことは想像できる。
しかし、櫻井は大人の対応で、筆者とのトークショーに出ることを快く了承してくれた。
2006年6月26日、東京ノスタルジックカーショー2006スペシャルイベントで櫻井とトークショーをすることができた。この時の話を参考にこの企画を構成していきたい。
まず、このページを読んでいる読者の多くが櫻井眞一郎がどのような人物であるかをご存じだとは思う。
だが、彼の青年期を知るものはまず居ないだろう。
桜井は1929年4月3日、横浜生まれた。
父親も母親も教育者で、父親は国文学者、母親は教師だった。教育者である両親の血を受けて文才があったらしく、小学2年のとき、作文で賞ををもらった。オート3輪が通り過ぎたあとの排気ガスの匂いがたまらなく好きで、追いかけて行って匂いを嗅ぐという内容だった。どうやらこの頃から櫻井の心の中には自動車への憧憬のようなものが芽生えていたらしい。
小学5年の時に、壊血病にかかった。蚊に刺されると半日も血が止まらず、舌に穴があいて、夜になると口から溢れるほど血が流れることもあった。しかも、追い打ちをかけるように結核を併発。医者はついにサジを投げた。
「もうだめだ。命が助からないかもしれない」
子供心にも櫻井はそう思い、両親も覚悟をしたようだったが、両親にとってはかけがえのない一人っ子。転地療養にの望みを託し、住み慣れた横浜を離れ、一家は父親の出身地の神奈川県海老名に移住した。
「山羊、ウサギ、小鳥、鶏、犬、猫、トカゲまでいろんな動物を飼ったが、その動物との交流を通していろいろなことを学んだ。
猫が私に信頼を寄せてくれたことも、感動的だった。
飼っていたメス猫のおなかが大きくなり、お産が近づいたので部屋の隅にミカン箱を置いて、中にふとんを敷いてやった。猫はふつうは人の見えないところでお産をすると聞いていたが、『お前はここで産むんだよ』と何度も言い聞かせてやると、やがて目の前で産み始めた。
苦しくなると私を呼ぶので腹をさすってやるが、こちらも病気療養中の身で頭も痛いし、体が疲れるので自分のふとんに戻ると、猫が自分の所に寄ってきて、また叫ぶ。仕方がないので、我慢しながら全部産み終わるまでおなかをさすり続けた。
猫は生まれた子猫をきれいになめたあと、くわえて私の寝床の中にみんな運んできた。
桜井はこの当時の事をこう語る。
「病気は辛かったけれど、こうした動物たちとの触れあいは私の人生にとってかけがえのない貴重な経験だった」
小学6年の夏を過ぎると、体調は回復し、鮎釣りに出かけられるほどになったが、回復不能といわれた難病だけに後遺症は櫻井を一生悩ませ続けた。
病気の経験のない人には理解できないかもしれないが、幼い頃の病気の原体験が、後年クルマ作りに人間への愛を求めるようになった櫻井の人格形成に強くかかわっているのだ。
そして1942年、元気になった櫻井は厚木中学(現厚木高校)に進学するも、第2次世界大戦が始まり、中学3年の頃から櫻井たちも学徒動員され、近くの工場で働くようになった。
行った工場は神奈川県川崎市溝の口にあった日本光学(現ニコン)だった。そこで「ウ射」という計算機を作っていた。
飛んできた敵機を測距機で狙うと、どこを狙って撃ったらいいか照準を決める手動の計算機で、平歯車、傘歯車、ヘリカルギアなどいくつも組み合わせたものだったから、仕事はほとんどギアを削ることだった。
1945年8月15日に終戦。
8月30日にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のマッカーサー司令官が厚木飛行場に降り立つというので、櫻井は友達と自転車に乗って見に行った。ブルドーザーやスクレーパー(岩や土などを削って運ぶ土木機械)が動き回っていた。日本ではほとんど人力でやる作業を米軍は大きな土木機械でやっていた。
「これじゃ日本は戦争に勝てない」と櫻井はあらためて思ったという。
その後、GI(アメリカ軍人の俗称)の姿を街で見かけるようになったが、彼らは悪いことをしないというのがわかって親しくつきあうようになった。
1947年には一高(東大駒場)を受験したが失敗し、1年浪人したあと、横浜工専(現横浜国大)に入学。横浜工専は三無主義で、無試験(入学後)、無処罰、無採点だった。
「私は自動車部に入り、いすゞ、ダッジ、ビュイック、クライスラーなどのおんぼろ車を苦労して動かした。アルバイトでいろんな物を運搬してガソリン代、オイル代、部品代などにあてた。まだ、戦後の混乱から世の中が脱しきれない1950年頃の話で、ぐずった赤ちゃんのような機嫌の悪いクルマとのつきあいを通して、私のクルマへの傾斜は一段と強まった」
そうしてクルマ業界へ順調へ進んでいたと思われた桜井だが、大学を卒業すると思わぬ展開を迎える。
社葬で使用された櫻井の写真はカメラマンの藤牧功が8×10(約20×25cmの大判カメラ)で撮ったものだ。
初代プリンス スカイライン(1957年 ALSI-S1)のリア。テールフィンを有するデザインなど、随所にアメリカ車の影響が感じられるデザイン。
2型ではヘッドライトが4灯式になるなどの変更が加えられた。
*文中敬称略
掲載:ノスタルジックヒーロー 2011年6月号 Vol.145(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)
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