工場に内証で入れたストライプは大ヒットにつながった|初代シルビア&A550Xをデザインした男 Vol.3

幻のスポーツカーとなったA550X(ニッサン2000GT)は自動車ショーの会場に運ばれる寸前にヤマハの川上源一社長からストップがかかり、ヤマハが造った2台のアルミボディのA550Xと日産が造ったFRPのA550Xは世に出ることなく消えていった。

「私たち現場で働く者には上層部にどんながあったかわかりません。私たちはヤマハの設計陣たちとお別れの会もしました。私と吉田さんは安川さんや花川さんと『また縁があったら一緒にやりましょうね』と和気あいあいとお酒を飲みました。

 A・ゲルツが『キムラという若いデザイナーを教えたことがあるよ。彼がシルビアとA550Xをデザインしたというならそうだろう』と言ってくれているなら、それだけで十分満足です。A・ゲルツとは、最後に小型車をやりましたが、クレイモデル止まりでした。契約期間の最後のほうは、片隅で一心に本を読んで何かの勉強をしていました。日産はA・ゲルツをうまく生かし切れなかった。彼にはもっと新しい提案をしてもらいたかったようです」

 しかし、A・ゲルツも微妙な点をついて自分を主張している、と言える。シルビアもA550Xもトヨタ2000GTもヤマハという共通項があるからだ。深い話を知らない人は「ヤマハが絡んでいるから、A・ゲルツも絡んだのだろう」と短絡的に考えてしまう。

 そんな世間の風評を翻してくれた木村の今回の発言(シルビア&A550Xのデザインについて)の意味は大変重い。ここから筆者の考察は推測から確信に変わった。デザイナーとしてではなくアドバイザーとして日産と契約しているので当然といえば当然の帰結だが。

 ここからはジュネーブモーターショーやサニークーペの話に移そう。

 1965年3月、木村は単身でスイスの「ジュネーブモーターショー」を視察する機会を与えられた。イタリアのトリノにあるピニンファリーナの工房を訪ねたり、フィレンツェの美術遺産を見たり、デンマークのデザインセンターも訪問した。デザインの感性を磨くためには有意義な旅だった。

 1965年に日産の造形課が第1課と第2課に分かれる。第2造形課の課長は千綿勝で商業車(サニーは商業車のバンから開発が開始された)を担当することになった。そこで木村はサニークーペをデザインする。サニーのフラッグシップを作ろうと千綿課長は全力をあげたが、設計課には内証だった。クーペを作る時はすでにサニーセダンは出来上がっていたので、試作工場からフロント部分とドアの板金を借りてきて、リア部分にクレイをつけ足した。木村の相棒は日野から移ってきた関徹夫だった。最初、関はショルダーをホップアップさせたかった。だが、全長の短いサニーには無理があった。

「関さん、モデルを直していいか?」「いいですよ」

 関は気分転換のために午後東京へ出かけていった。

 木村はモデルのチーフの山田泰里に「今日は遅くまでやるぞ」と宣言し、ショルダーのホップアップ部分を削って、折れ線の他に別の線を入れ、自然にじわっと変化してリアにつながるように修正した。関も修正したクレイモデルを後で見て満足げだった。

 木村がこだわったボディサイドに入れたピンストライプが工場と一悶着起こした。そのストライプは設計課に内証にされていた。ピンストライプは塗装後、ボディに入れるが、食いつきのいい(はがれにくい)手塗りのラインを入れる手間が大変だった。

「「思いつきで造形課が勝手にストライプを入れるなんて!」と工場の担当者からこっぴどくやられた。あのおしゃれなストライプがあることで、イメージアップになったのに」

 サニーのストライプの陰にはこんな裏話があったのだ。

 木村はサニークーペのデザインをしたあと、1965年5月に副鼻腔炎のために3カ月入院した。その間に関や山田のがんばりで作業は順調に進んだ。

「入院中、病院から会社に電話したら『木村君サニークーペはヒットじゃなくホームランだよ』と千綿課長に言われて、うれしかったですね」

 東京藝術大学卒業時の話に戻る。もともと電車が好きだった木村の卒業制作に助言してくれたのは国鉄技師の星晃だった。約20年後に星の推薦で「国鉄のデザイン専門委員になってほしい」という依頼があった。手銭正道、松本哲夫とともに木村は委員に選ばれた。

 木村は85年3月、新幹線100形(2階建て)の外形、内装デザインに携わる。以後、新幹線300形(のぞみ)、E1形、500形(のぞみ)、700形(のぞみ)、N700形などのデザインに携わっている。卒業製作で世話になった星との縁で国鉄(JR)の仕事を約30年以上も続けた。

 2002年4月から現在まで名古屋学芸大学大学院メディア造形学科教授・学部長、大学院研究科長を務めている。筆者はインタビューのために緑いっぱいのキャンパスを訪れたが、こんな環境のいい空間で教壇に立つ木村がうらやましかった。当時78歳、50年近くも前の事柄をよどみなく話す木村が最後にシルビアについて力強くこう結んでくれた。

「誰がシルビアをデザインしたのかは重要ではありません。私と吉田さん、小椋さんは単にその機会を与えられたにすぎません。シルビアはコンテッサ900スプリントに対抗しようと、たまたま企画しただけです。シルビアをデザインできたのは運命の巡り合わせです。単なるショーモデルが市販されただけでも夢のようです。さらに、高い評価を受けたことはデザイナー冥利につきます。本当に皆さまに感謝しています」


木村は日産退社後、日本インダストリアルデザイナー協会、国際デザイン交流協会(大阪)、国際デザインセンター(名古屋)などで活躍、現在も日本インダストリアルデザイナー協会監事を務めている。


A550X(ニッサン2000GT)のエクステリアは木村が描いたが、クレイモデルはゲルツが修正を加えている。



木村が描いたシルビアのフロントのデザインスケッチ。この時はリトラクタブルヘッドランプだった。


1960年お正月、神奈川県神奈川区宝町にあった日産本社2号館屋上で造形課全員で記念写真。前列右から手銭正道、飯塚英博、佐野勇夫、梶原秀俊、高橋良治、猶井正夫、井田勇。後列右から長信男、北川雄、太田幸夫、鈴木千介、管野静江、千綿勝、四本和巳、高橋武治、渡辺弘文、境田潤、木村一男。ほとんどが造形課だけの制服を着ている。


掲載:ノスタルジックヒーロー 2012年10月号 Vol.153(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

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text & Photo : Kohju Tsuji/辻 好樹

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