初代シルビアのスケッチはリトラクタブルヘッドライトだった? 幻に終わった「日産の2000GT」をデザインした男と国際的デザイナーの関係|初代シルビア&A550Xをデザインした男 Vol.2

       
初代シルビアとA550Xをデザインした木村一男は1934年7月24日、大阪市東区(現在の中央区)東雲町に生まれた。金塚国民学校3年の時、父親の故郷福井へ疎開。1948年に大阪に帰り、阿倍野区第四中学校(現在の松虫中学校)2年に戻る。卒業後、大阪府立夕陽丘高等学校に入学。

 先輩に女優の有馬稲子や小田がいる。小田は高校2年の時、小説『明後日の日記』を書き、新聞部だった木村はその紹介記事を書いた。小田は『何でも見てやろう』(河出書房刊)でベストセラー作家になり、べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)や市民活動家として活躍する。中学と高校で新聞部だった木村は新聞の紙面をレイアウトするのが大好きだった。

 高校卒業後、東京の阿佐ヶ谷美術研究所に1年通ったあと、東京藝術大学美術学部工芸科工芸計画部に入学。同期にはいすゞベレットの井ノ口、内藤久満、幻のベレット108の佐藤昌弘、プリンスの片柳重昭、関東自工の沢田勝彦。1年先輩にはトヨタ2000GTの野崎喩、ホンダSの河村雅夫や森泰助、スズキの佐々木、トヨタ車体の野坂貞三、日産の梶原秀俊がいる。

 工芸計画部の3年上の佐野勇夫から誘いを受けて、1958年に日産入社。造形課長に佐藤章蔵がいたことも入社理由の1つ。だが、木村の卒業制作はクルマではなく電車だった。その時に世話になったのが国鉄(現JR)技師の星で、約20年後に国鉄の仕事にかかわるようになる。2人は運命の糸でつながっていたが、その詳細は後で述べることにする。

 木村の本音は国鉄入社だった。その年国鉄はデザイナーを採用しなかったので、あきらめるしかなかった。日産へ入社した時、造形課は課長やアシスタントを含めて13人しかいなかった。

 木村の最初の仕事は大型680トラックのエンブレムだった。1959年には佐野の下で、ブルーバードワゴンのデザイン補佐をしている。1959年5月に222ダットサントラックのラジエーターグリルをデザインし、59年10月に312ブルーバードのインパネのスケッチを描いている。

 60年には初代30セドリックにつけられた「Nissan」のエンブレムもデザインした。その時の若い木村がエンブレムを持った写真が残っている。

「A48X」というクルマの写真がある。クレイモデルを計測しているのが木村だ。デザインは佐藤章蔵が担当した。主担当員は原禎一。1957年頃、310ブルーバードを計画するときに試作車としてオーソドックスな「A48X」と革新的な「A49X」(RRの水平対向OHVエンジン搭載)が造られた。「A49X」の主担当員は藤田昌次郎だった。

「A48X」はヨーロッパ車と伍した走りができることと日本の悪路も走行可能という漠然とした目標で設計がスタートした。

「A48Xの写真は実際にデザインした数年後に撮りました。上野周三さん、井田勇さん、高橋武浩さんも写っています。オーソドックスなFRセダンだった。広報パンフレットを作るというので私がモデルにかり出されました」

 1961年2月に「A260X」というクルマを東京藝大出身の梶原秀俊がデザインしている。木村は梶原をサポートし、メーターやインテリアにかかわり、試作車まで製作した。もちろん走行実験までしたが、途中で頓挫した。

「『A260X』は日産で最初のコンパクトカーになるはずでしたが、狙い通りの性能が発揮できずに試作段階で終わりました。川又克二社長は小さなクルマにあまり興味は持っていなかった。『大きなクルマを作っても、小さなクルマを造っても同じようにお金がかかる。そんなものをやっても儲からん』と小さなクルマには否定的でした。大量生産のための設備投資に莫大な資金が必要だから価格の高いクルマを生産したかったのでしょう」と木村。

 ここから前回のA・ゲルツの呪縛と書いた「シルビア&A550Xのストーリー」を整理してみよう。

 A・ゲルツは1963年5月、日産と嘱託契約を交わす。しかし、その時点でシルビアのデザインはほぼ完成していたことは前述したとおりだ。木村はA・ゲルツの指導を受けたことは認めているが……。

「ゲルツさんはご自分でスケッチは描きませんでした。クレイモデルを『こんなふうに修正したらどうか』とデザインをシャープにリファインしたくらいです。シルビアは、私と吉田章夫さん(インテリア)、小椋久照さん(2人の補佐)の3人で担当したことははっきりしています。このクルマを作った不純な(?)動機を白状します。1962年10月にジョバンニ・ミケロティがスタイリングを担当したコンテッサ900スプリントがトリノモーターショーに出品され話題になりました。私たちも『1963年10月の全日本自動車ショーであのクルマに対抗できる美しいショーモデルをデザインしよう』ということになり、作業をスタートして2カ月後に4分の1クレイモデルが完成しました。それを計測し線図を描いた」


 日産とヤマハの不協和音がいつの日か出るようになってくる。日産はヤマハにシルビアのショーモデルを委託した。以前から日産とヤマハはフェアレディの幌やセドリックのエンジンの開発などで関係が深かった。ショーモデルの鉄板を手で叩いて全日本自動車ショーにやっと間に合わせることができた、と日産とヤマハのエンジニアは安堵したが、残念ながらショーにシルビアは出品されなかった。それは、なぜだったのだろうか。

「シルビアは上層部に内証で造っていました。自動車ショー用のモデルをテストコースに並べて上層部に見せていた時、1台のクルマを川又社長は見つけて『なんだこれは』と驚きました。社長は『生産しないクルマは自動車ショーには出さない。出したければ生産計画を持ってこい』と言ったんです。私は密かにほくそ笑みました。生産計画をたてることは設計開発が正式に認められたことと同じではないか。これで生産に着手できるぞと思いました」

 川又社長の鶴の一言でシルビアは63年の全日本自動車ショーには出品できなかった。正式には64年の東京モーターショー(出品名ダットサン1500クーペ)まで待たなければならなくなった。しかし、製作はヤマハではなく殿内製作所に変更された。日産とヤマハの協力関係が解消されたのだった。ショーに出たのは殿内製作所で造られた生産試作第1号車だった。翌65年4月、シルビアとして発売され、68年5月まで554台生産された。

 日産とヤマハのトップの不和に翻弄されたもう1台のクルマがA550Xである。運命の悪戯か、2台とも木村一男がデザインし、A・ゲルツがリファインした因縁のクルマである。

 ここでA・ゲルツについて、筆者の推理を許していただきたい。

 A・ゲルツは日産とはアドバイザー&コンサルタント契約をしている。410ブルーバードをデザインしたピニンファリーナのようなデザイン契約ではないことを確認しておきたい。

 A・ゲルツは名声を欲しいままにした有名デザイナーだったが、なぜ日産と嘱託契約したのだろうか。筆者の会った印象では、やや放言癖がある感じだった。シルビア、A550X、トヨタ2000GT、フェアレディZまでA・ゲルツのデザインという話がある雑誌に掲載されている。「あれは雑誌が勝手に書いた。自分は言ってない」と否定したが、雑誌に抗議したという話は聞いていない。

 しかし、北米日産がフェアレディZについて抗議すると、A・ゲルツが謝罪したという話もある。あくまで噂の域を出ない、裏の取れていない話だが。

 日産との契約内容の詳細はわからないが、日産もA・ゲルツがシルビアとA550Xをデザインしたという話を泳がせていたふしがある。若手の無名デザイナーより、有名デザイナーがその車をデザインしたというだけで販売促進やイメージアップになると考えてもおかしくはないからだ。

 なるべく多くの周辺にいたデザイナーを取材し、真実に迫ることが、筆者のできることである。あとは読者や識者の評価を待つだけである。

 正直言えば、筆者も今まで間違った記事を書いたことはある。例えばヤマハのエンジニアが「A550XのデザインはA・ゲルツだ」と言えば、その言葉を信用するしかない。しかし、それは誤りだった。以前、ヤマハの製作だからA550XはYX30(ヤマハの4輪試作車)と同じ「GKデザイン」だと筆者は思い込んでいた時期もあった。昔の記事でそんな記述があったなら、この場を借りてお詫びを申し上げる。

そして木村はこう語る。

「A550Xは私木村(エクステリア)と吉田章夫さん(インテリア)でデザインしました。もちろんA・ゲルツも来日して3カ月たちますから、クレイモデルにタッチしていました。A・ゲルツは『ステアリングは2本スポークより4本にしたらどうか』などと提案していましたよ。それから1台のクルマがA550Xに大きな影響を及ぼしていました。日産が購入したジャガーEタイプです。このクルマをヤマハに貸与し、担当技術者の花川均さんが徹底的に分解し研究用にしています。当時は通産省(現経産省)が1社1台輸入を割り当てていた。ヤマハはファセル・ベガを購入しているんです」


木村が描いたシルビアのフロントのデザインスケッチ。この時はリトラクタブルヘッドランプだった。


このリアスタイルのスケッチは完成車に少し似ているファストバックスタイルだ。リアランプは小さい。


サイドビューのデザインスケッチ。ファストバックだが、市販モデルはノッチバックとなった。


60年に初代30セドリックのエンブレムをデザイン。26歳の時の木村の作品だ。


掲載:ノスタルジックヒーロー 2012年10月号 Vol.153(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

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text & Photo : Kohju Tsuji/辻 好樹

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