70年代排ガス規制からの復帰後もいきなり総合優勝! そして4バルブDOHCのLZヘッド! 「ラリーの日産」実は筋金入りだった|サファリで開花した「ラリーの日産」 Vol.3

1981年サファリラリーで総合優勝を果たしたPA10バイオレットGT。グループ4仕様のLZ20B型DOHCエンジンを搭載。

       
「ラリーの日産」としての活動していた日産自動車。

 しかし、1970年代初頭に持ち上がった排ガス規制はラリー活動にも影響を与え、日産ワークスとしての活動は73年いっぱいでいったん後退することを余儀なくされていた。このタイミングは国内レースもまったく同じで、しばらく日産ワークスとしてモータースポーツの表舞台に出てくることはなかったのである。

 しかし、復帰は思いのほか早く、77年のサファリ、サザンクロス(オーストラリア)に710バイオレット(グループ4)を送り込み、サザンクロスではいきなり総合優勝の快挙を見せた。表立った活動は休止していたものの、ユーザー支援やパーツ開発の名目で、日産ワークスの技術は途絶えていなかったのである。

 それにしても日産の先進技術に対する執念はすさまじく、ベース車両をPA10バイオレットに切り替えたばかりの1978年サファリで優勝(グループ2仕様)すると、1981年まで4連覇を達成。ブランクを感じさせないどころか、トップコンテンダーとしての実力を維持し続けていたのである。

 グループB時代の240RSは、バランスに優れた究極のFRラリーカーと呼べる出来栄えだったが、4WDのアウディクワトロやミッドシップのランチアラリー037が相手と、ベース車両の基本形態が勝敗を決する時代となっていたことが不運だった。

 量産車技術向上のために始めた日産のラリー活動は、期せずして量産車の基本性能が問われるグループA規定下で幕引きを迎える形になったことは因果な巡り合わせだったが、もし日産がもう一度ラリーに復活する機会があるとするなら、現在トヨタがハイブリッドプロトでスポーツカー世界選手権に復帰したように、未知なる量産車技術で勝敗が問われる時代になってからのことかもしれない。

 これこそ日産ラリー哲学の神髄と言えるものだが、その時期は、思いのほか早くやってきそうな気配である。


ラリーカーとして長らくブルーバードを選択してきた日産だったが、510以降の610、810が重厚長大化路線を進んだことで不適格と判断。77年のラリー活動再開時にはひと回り小ぶりなバイオレット系(710)を選択。引き続きPA10の選択となったがリアサスペンションの形式変更(リジッドアクスル化)が論議を呼んだ。


エンジンはヘッド換装型のLZ20B型を搭載。78年、79年をグループ2仕様(L20B型SOHC、190ps)で戦った日産は、80年の規定変更に伴いより戦闘力の高いグループ4仕様に変更。4バルブDOHCのLZヘッドに換装して215psへ出力を引き上げていた。


240RSの投入は1983年から。S110シルビアをベースにするがS110自体がPA10とフロアを共有するためラリーカーとして熟成させる環境は整っていた。1983年のニュージーランドラリーでWRCにおける240RS史上の最上位となる2位を獲得。モデル後期はプジョー205T16やランチア038(デルタS4)を相手に善戦するも結果は残せず。


FRレイアウトを採ったグループBカーとしては最高の出来栄えと評価される240RS。見ようによっては傑作PA10バイオレットをパワー面まで含めて理想型でまとめ上げたモデルと言えるだろうか。クルマ好きにとってはたまらなく魅力の大きなモデルである。


搭載エンジンはFJ24型。外観はFJ20型と同一のデザインを採り、名称もFJ型だが内容は異質。240RSのため専用設計されたエンジンでNA仕様を前提に設計されている。スタンダードスペックは240psだが競技の性格に応じて270〜280ps仕様も用意されていた。

掲載:ノスタルジックヒーロー 2012年12月号 Vol.154(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

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text : Akihiko Ouchi/大内明彦 photo : Masami Sato/佐藤正巳

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