「ニスモ」設立と時を同じくして日産モータースポーツが再始動。Cカー、そしてツーリングカーレースへ|日産グループAジェネレーション Vol.1

       
1970年代中後半の活動休止期をはさみ、日産のモータースポーツ活動が本格再始動するのは、スーパーシルエットの終盤期からグループCカーへの移行期、「ニスモ」の設立時期あたりと見てよいだろう。

日産自動車から独立したモータースポーツ企業としたことで、日産自動車からワンクッション置く形としたことが大きな特徴だった。この形態は、部署独自の判断で活動できる小回りのよさがある半面、日産自動車の技術部門に直属するわけではなかったので、本格的な車両開発を必要とするプロジェクトではハンディを背負う形となっていた。

 LZ型、VG型の各エンジンにLM、ローラ、マーチのシャシーを組み合わせてきたグループCカー活動は、その典型例と言ってよかった。83年に始まるグループC活動が、総合戦力としてトップレベルに達したのは、結局、中央研究所がグループCカー専用エンジンのVRH35型を手掛けた89年以降の時代となるわけだが、こうしたことは実はツーリングカーのカテゴリーでも起きていた。いや、むしろこちらのほうが事情は深刻だったと言えるだろうか。

 FIAが定める競技車両の規定は、82年からグループN〜C規定へとその名称と内容を変えていた。このうちツーリングカーの当該カテゴリーはグループNとAだったが、それまでのグループ2/4が天井知らずの改造競争に陥り、量産車が持つ本来の基本構造や性能とは遊離した領域での戦いに終始した失敗を踏まえての是正だった。

 逆に言えば、旧規定でスポイルされたツーリングカーレースの本質を取り戻そうと練り直された規定で、改造範囲を大きく制限したところが特徴だった。改造競争が激化し、結果的に追従できる参加者が限定され、それがツーリングカーレースの衰退を招く直因となったため、改造制限により参加者の門戸を広げようとするものだった。

 実際、事は深刻で、量産車ベースの車両によるレースはGTカテゴリーも低迷していただけに、FIAとしては量産車メーカーが積極的に参画できる規定のレースが欲しかったのである。数多くのメーカーが参画することでレースの隆盛化を見越していたのだ。

 こうした状況背景で誕生したグループN、A規定だが、グループN(ノーマル)は規定名が示すように、動力系の改造は一切許されず、文字どおり量産車状態によって争われるレースだった。グループAは、これより改造範囲を広げた規定だが、基本構造の変更は認められず、かつてのようにSOHC方式が4バルブDOHCに大化けするような手法は封じられていた。

そしてDR30スカイラインRSターボの時代へ。

(Vol.2へ続く)


R31系スカイラインで使われていたRB20DET型エンジンをベースにグループA対策を施したRB20DET-R型エンジンを搭載。


グループA規定に準じてダッシュボードやドア内張りがそのまま残された31型のコクピット。


グループA車両としてGT-Rの戦闘力を決定付けたRB26DETT型エンジン。排気量設定や基本構造など、すべてがレーシングユース(グループA仕様)を前提に設計されたエンジンだった。

掲載:ノスタルジックヒーロー 2012年10月号 Vol.153(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

全ての画像を見る

日産グループAジェネレーション記事一覧(全3記事)

関連記事:スカイライン記事一覧

text:Nostalgic Hero/編集部 photo : Masami Sato/佐藤正巳

RECOMMENDED

RELATED

RANKING