2番手を6秒離しポールポジション獲得! VRH35予選仕様が90年のル・マンで見せたポテンシャル|日産グループCジェネレーション Vol.3

グループCカーにおいてポルシェ全盛だった1986年に念願のル・マン参戦を果たした日産。

持ち込んだ車両はマーチ85G/86GにVG30ターボを組み合わせたR85V、R86Vの2台だ。

星野組R86Vはミッションを壊して早々とリタイアしてしまったが、R85Vの長谷見/和田/ウィーバー組が完走して16位に食い込んでいた。しかし、完走狙いの抑えたペースであったにもかかわらず、終盤にはエンジンが消耗し再始動が困難な状態に陥っていた。予想外の事態だったが逆に不確定要素がいくらでもあることを思い知るよい教訓となるレースでもあった。VG30型を使うル・マンプロジェクトは88年まで続いたが、結局成果を挙げぬままVRH型にその座を譲っていた。

そしてル・マン参戦を果たした4年後の1990年に、自信作のR90C系が予選2番手に6秒の大差をつけてポールポジションを獲得する。

高速のサルテサーキットで、相手がジャガーXJR‐12とブルン・ポルシェ962Cだったことを考えれば、5年前には予想だにできなかった快進撃ぶりと言えるものだった。惜しくもこの年は、優勝まであと1歩の状態だったが、巡り合わせの悪さというか、このままいけば勝てるはずの翌91年は、車両規定が変更されターボカーが圧倒的に不利な条件となっていた(代わってIMSA‐GTP規定のマツダ787Bにチャンスが訪れる形となり、日本車による初のル・マン優勝を果たすことになる)。

 代わりに、というわけでもないのだろうが、ターボカーが使えるIMSA戦の92年デイトナ24時間に乗り込んだ日産は、IMSA‐GTP勢を完膚なきまでにたたきのめす完勝劇を演じてのけたのである。しかも、日本車、日本チーム、日本人ドライバー(長谷見昌弘/星野一義/鈴木利男)というオール日本構成の余録までつけていた。

 グループCカー規定のNA3.5L化に合わせ、日産もV12エンジン搭載のNP35を開発したが、その直後にグループCカー規定が消滅することになり、わずか1レースでその生涯を終える悲運の車両となった。

 勝負事に「……たら」「……れば」は禁句だが、いま振り返ると「あと1年早ければ」と思わせる、時代の巡りの悪さがグループCカー時代の日産にはあった。もし88年に新規のVRH開発計画が始まっていれば……、と惜しまれる。


モノコックのフロントエンド部。フロントラジエーター方式が採用された。フロントサスペンションはダブルウイッシュボーン方式。1000ps級のグループCカーを支えるだけあって構造物は全般に堅牢、剛健な作りである。


新世代カーボンモノコックシャシーの設計にあたりVRH35型をストレストマウント構造で使うことをローラ社に提案。当時としては常識はずれ(?)の構造だったが合理的な思想でR90系車両の戦闘力向上に大きく寄与していた。


基本はローラ・カーズ社製のカーボンモノコックシャシーだが90年車以降は日産オリジナルとなるR90系シャシーが登場。90年車の場合はローラ社のモディファイ版となる世界選手権用NME(ニスモ・ヨーロッパ)車、北米IMSA仕様のR90CKと日産オリジナルとなる全日本選手権用R90CPのふたつのモデルが使われていた。

掲載:ノスタルジックヒーロー 2012年8月号 Vol.152(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

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text:Nostalgic Hero/編集部 photo : Masami Sato/佐藤正巳

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