ベンツ、ジャガー、トヨタと競い合った? 82-92年のレースシーンで戦ったグループCマシンとニスモ創設 |日産グループCジェネレーション Vol.2

       
1984年9月に日産自動車系列のモータースポーツ専従会社として「ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル」、略称「ニスモ」が創設された。

 当時の国内レースは、全日本F2選手権、富士GCシリーズとトップカテゴリーのレースがドライバーズ選手権であったことに対し、新たに始まったグループC規定や、85年に始まるグループA規定は、いずれもメイクス選手権に重きが置かれていたため、メーカーが腰を上げやすい状況にあったのである。

 全日本耐久選手権シリーズの発足当初はスーパーシルエットの延長線上で活動を続けていた日産勢も、ニスモの創設によって参戦態勢が変わり、実戦における戦闘力を確実に引き上げていた。なかでも、85年以降の日産Cカーの標準スタイルとなったマーチシャシー+VG30型ターボエンジンのパッケージングは、先行するポルシェ956を射程にとらえようとしたスペックで、大きな期待が寄せられていた。

 しかし、当時のニスモは日産のモータースポーツ会社とはいうものの、日産ワークスそのものではなく、エンジンの開発・製造能力までは持ち合わせていなかった。実際のところ、日産Cカーの主力パワーユニットだったVG30型ターボも、米エレクトラモーティブ社の開発によるもので、日産ワークス、すなわち追浜の特殊車両課は介在していなかった。LZ系ターボエンジンに限界を感じたニスモが、代わりとなるCカー用エンジンとして、米IMSAシリーズで活躍するエレクトラモーティブ製のVG30型ターボに着目したもので、日産自動車としてこれの導入を図ったというものではなかったのだ。


日産が社名を背負って念願のル・マン24時間に初参加を果たしたのは86年のことだった。持ち込んだ車両はマーチ85G/86GにVG30ターボを組み合わせたR85V。

 日産自動車が日産ワークスとしてレースに復帰するのは、これより2年後の87年、VEJ30型V8エンジンを開発した時点からのことになる。このVEJ型は基本設計でいくつか大きな問題を抱え、すぐにVRH型へと取って代わることになるが、合わせてVRH型エンジンの特性を反映するシャシーをローラ・カーズに依頼したことで、89年に登場するR89Cはすばらしいベースポテンシャルを披露することになる。

 VG型の時代は、目指せポルシェ、追いつけポルシェ、が目標となる状態だったが、いざVRH型エンジンが完成してみると、もはやプライベートポルシェ勢では相手にならず、代わってシルクカット・ジャガーXJR‐9やベンツC9が標的となっていた。

 ところで、グループCカーの時代は82年から92年まで続くが、このうち82年から90年まではターボカーの時代、91年、92年はNA3.5Lの時代と分けることができる。さらにターボカーの時代も、ポルシェ主導期の82年から86年ぐらいまでの時期と、それ以降ジャガー、ベンツ、日産、トヨタが台頭する時代とに分けることができた。

 こうした流れの中で日産(ニスモ)は、ポルシェ全盛の86年に念願のル・マン参戦を果たしていたが、ポルシェとの実力差が予想以上に大きかったことから、その対応を謙虚に受け止めていたふしがある。




撮影車両は92年デイトナ24時間優勝車。日産は89年に新設計のVRH35型エンジンを投入するにあたりシャシーとコンプリートでパッケージングの入れ替えを検討。マーチシャシーの旧態化を受け、エンジンとシャシーを一体化する考えの新型グループCカー計画をスタート。それが89年ル・マンデビューのR89Cだった。


基本はローラ・カーズ社製のカーボンモノコックシャシーだが90年車以降は日産オリジナルとなるR90系シャシーが登場した。

掲載:ノスタルジックヒーロー 2012年8月号 Vol.152(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

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text:Nostalgic Hero/編集部 photo : Masami Sato/佐藤正巳

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