最強のレース組織 日産ワークスの歩み 6

1967年2月、日産ブランドとなった新型R380(2型)の記者発表に先立ち、日本自動車研究所の高速周回路で足慣らしを行う。搭載するGR8型エンジンのカムカバーには、まだPRINCEの刻印が残されていた。

今になってみれば日本のレース史上最強の2リッタープロトタイプレーシングカーと言って間違いのない日産R380。

 しかしそこにいたるまでには、タキレーシングが持ち込んだポルシェ906との対決に、レギュレーション変更も加わるなど、決して順調な道のりではなかった。しかし、自動車メーカーのワークスチームだからこそ、Ⅱ型、Ⅲ型へと着々と進化させ、戦闘力を高めていくのだった……。

 1967年の第4回日本グランプリ終了直後に、翌年の第5回日本グランプリに関する車両規定の検討が始まった。排気量無制限のオープン2シーター、グループ7カーの参加を認める規定だが、これによりグランプリの勢力分布は大きく変わることになった。排気量の水準が、どこまで押し上げられるかは不明だったが、日産にとっては、少なくとも2リッターのR380が無力化されることは確かなことだった。

 この時点で日産は、いくつかの選択肢を持っていたが、最終的には新型グループ7カーの開発を選んでいた。言うまでもなくR381のプロジェクトで、同時に、R380の行き場がなくなることも意味していた。これが一般の企業であれば、R380の立場にある製品はそのまま中止となる公算が強かったが、旧プリンス系を軸とする第2特殊車両課の場合は、そうはしなかったのである。

 グランプリはなにより勝つことが最優先されるため、大排気量の新型グループ7カーを振り向けるが、レーシング技術の指標となっているようなR380には別の目標を与え、継続的に開発を続ける2本立ての路線が選ばれたのである。その別の目標とは、ル・マン24時間レースだった。

日産R380
赤/白の2トーンカラーで塗られた速度記録挑戦車。2型改となるが目視できる変更点はわずかだ。


 空力面での問題も露呈したR380は、この時点で翌年のグランプリの主戦力にならないことが決定すると方針を転換し、グループ6として国際的な耐久レースを目標に開発が続けられることになった。

 その手始めとして、1型で失敗した国際速度記録会への挑戦が再度決まったのである。最高速度の面で問題を抱えていた2型にとっては、日本自動車研究所のオーバルコースを使った連続高速走行は願ったりかなったりの目標で、グランプリの終了直後から何度か同コースを走っては、データの収集と解析を繰り返していた。


日産R380Ⅱ型
1967年2月、全体の調子をうかがうように高速周回路をラップするR380 2型。


日産R380Ⅱ型
1967年9月、翌月に控えた国際速度記録挑戦会に備えて日本自動車研究所のコースを周回するR380
型。カラーリングはグランプリ当時のもので、仕様は2型から2型改への移行期の状態と思われる。


 2型はフロントノーズ先端が高く、ノーズ下部に抱え込んだ空気がフロントリフトの原因となっていた。また、リアカウルも独特のダックテールが大きな抵抗となることが分かり、これらの問題を改善するため改良型のカウルが作られていた。第4回グランプリの勝敗を分けた再始動性の悪さについては、キャブレターからフューエルインジェクションへの変更で対応可能だったが、時間的な余裕がなく、こちらのほうは1968年の第5回日本グランプリまでに間に合わせることで決着していた。

 2型の空力対策版(結果的には前後カウル形状の変更)と呼べるⅡ改型で臨んだ速度記録挑戦会は、挑戦した7項目すべてで世界記録を塗り替え、車両もまったくのノートラブルで走りきる最高の幕引きとなっていた。


掲載:ノスタルジックヒーロー2011年10月号 Vol.147(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

text&photo:Akihiko Ouchi/大内明彦 cooperation:Nissan Motor Co.,Ltd./日産自動車

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