「ラリーの日産」の期待を背負いWRCへ挑んだが時代の波に飲み込まれた悲劇の名車|日産240RS 

日産自動車が送り出した唯一のグループBカー、240RSは1983年から86年までのWRCに出場し、最高位はデビューイヤーの83年、ニュージーランドの2位。85年まで実質3年間のワークスカーとしての活動期間では、好成績は早い時期に集中している。WRCの趨勢が2WDから4WDへと移行する大変革のただ中で、多くの同時代のラリーカー同様、FRの240RSも時流の波にのみ込まれたのだ。

 79〜81年のメイクス(メーカー)選手権2位やサファリラリー連覇など、輝かしい戦績を持つPA10バイオレットの後を継ぐWRCマシンとして生を受けた240RSは、83年1月にグループBとしてFIA(国際自動車連盟)のホモロゲーションを取得し、グループB元年となったその年の開幕戦モンテカルロでデビューを飾っている。

 ホモロゲ取得に必要な200台の中から、特別に仕立てられたワークスチーム用30台のエボモデルは、当然ベースモデルとは別ものだった。ベースモデルが240psのところ、ドライサンプ化された2340ccのFJ24型エンジンは、カムシャフトの形状変更と圧縮比が高められた結果、このデビュー戦の時点で+40 psの280psを発生、トルクも24kg‐m╱6000rpmから26.5kg‐m╱6400rpmへと向上している。その他、ブレーキも前後ともφ261mmのベンチレーテッドディスクに(ロードモデルはリアのみφ258mmソリッド)、ハンドブレーキも油圧式ものを採用、燃料タンク容量を7L増やすなど「エボ」への変更点は多岐にわたっている。

 また、グループBでのWRC出場を契機に、ヨーロッパでの本拠もアンディ・ドーソン率いるDADから、GMでの活動で知られていたビル・ブランデンシュタインのブランデンシュタイン・レーシングへと移し、ラリーオペレーションも一新された。

 83年初戦のモンテカルロは、エースドライバーのティモ・サロネンが14位、続くポルトガルではサロネンがリタイアし、テリー・ケイビーが8位。開幕の2戦を終え、4WDシステムをさらに熟成させてきたアウディ・クワトロや、純グループBとして前年からテスト参戦を続けてきたランチア・ラリー037とのポテンシャル差が、早くも露見していた。そして、そんな中で迎えたのが、日産にとってのメインイベントであるサファリだった。

 この年のサファリは、ランチアこそ姿を見せなかったものの、アウディ・ワークスが3台のクワトロをエントリー。日産と同じFR車アスコナを擁するオペルも2台を送り込み、シェカー・メッタ、マイク・カークランドの地元勢にサロネンを加えた3台態勢で、5連覇を狙う日産との三つ巴の戦いが予想された。

 そして、ワークス・グループBカーの激突でかつてないハイペースとなったラリーは、厳しい消耗戦になる。
 初日、中盤に1‐2‐3態勢を築いていた日産は、メッタ、カークランドがエンジントラブルでリタイア。サロネンひとりが孤軍奮闘する形に。アウディは地元のビック・プレストンJrが初日後半から首位に立つが、ハンヌ・ミッコラ、ミシェル・ムートンの欧州組は度重なるトラブルで出遅れ、オペル2台も大きくタイムロスしていた。
 そして迎えた最終日、早朝にプレストンJrがクラッシュして、サロネンが再び首位に立つ。2位以下は大きく遅れており、デビューから3戦目にして240RSの初優勝、日産のサファリ5連覇は確実になったかと思われた。

 だが、この年のサバンナは無情だった。ゴールまであと8時間、すでにラリーの山場を超えたと思われていた土壇場で、サロネンの240RSは、自慢のFJ24型がエンジンブローを喫してストップしてしまったのだ。症状は先にリタイアしたメッタとカークランドとまったく同じ。シリンダーヘッドのバルブ、リフターなどが固着し、カムが回らなくなり割れた。

 サファリチームを率いていた若林隆監督が「1万5000kmも走ってノートラブルだったエンジンなのに。それでもテスト不足だったのか……」と嘆いた非運だった。

 千載一遇のチャンスを逃してしまった日産と240RSは、その後、コルシカ、アクロポリス、ニュージーランド、1000湖、RACと転戦。冒頭の通り、ニュージーランドではクワトロの全滅に助けられ2位を得るのだが、タイムでは欧州グループBカーに太刀打ちできず、入賞は果たすも優勝争いができないラリーが続いた。

 翌84年、WRCの情勢は日産にとってさらに厳しいものになる。アウディはクワトロA2を、ランチアは037にエボリューションモデルを投入。FRにとどまったオペルも新車マンタを、さらにトヨタからはセリカTCターボも登場。240RSの相対的な戦闘力は下がり、この年は上位入賞すら望めなくなった。唯一の期待はサファリだったが、ここではセリカTCターボが240RSの前に立ちはだかる。

 それまでヨーロッパのスプリントラリーをメインに活動していたトヨタだったが、ワークスとして初挑戦となった84年のサファリをセリカTCターボであっさりと制覇。翌85年も2391ccにボアアップしてエボリューションモデルとなった240RSを返り討ちにしてしまう。そして、トヨタの豊富な資金とオベ・アンダーソンによる洗練されたラリーオペレーションは、次第に日産から「WRC日本代表」の座を奪い取っていくことになる。

 85年末、日産は長らくWRC活動を担ってきた若林率いる「追浜ワークス」を解散して、NISMOを新設。モータースポーツ活動の態勢変更を発表した。ここで240RSによるワークス活動は終了することになった。すでにWRCは、新たなる基軸のミッドシップ4WDカーの時代に入っており、240RSにこれ以上を望むのは無理。当然の結論だったと言えるだろう。

 240RSのラリーヒストリーを、時代に翻弄された悲劇とくくるのは簡単だ。しかし、世界各国のプライベーターは、ワークス撤退後もグループB規定が終了する86年末まで240RSを愛用し、WRCに存在感を示し続けた。PA10バイレットのような華々しい戦績こそ残せなかったが、ターマックからラフグラベルまで、不利を承知で欧州グループBカーに挑み続けたチャレンジング・スピリッツも含め、240RSはもうひとつの「ラリーの日産」を象徴するクルマとして、記憶にとどめておくべきラリーカーなのだ。


83年WRCサファリラリー。サファリを得意とする日産が5連覇をかけて240RSで出場。最終日にトップを走っていたサロネン╱ハルヤンネ組だったが、ゴール8時間前にエンジンブローでリタイアとなった。



85年WRCサファリラリー。地元ケニアのサファリ・スペシャリスト、メッタ╱コンベス組に託された240RSは、マールボロカラーをまとって激走したがリタイア。一方、日本から240RSでプライベート参戦した岩瀬晏弘が、総合8位・プライベーター1位でゴールしている。

掲載:ハチマルヒーロー 2011年 05月号 vol.15(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

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text : Hideki Hiramatu/平松秀樹 photo : Martin Holmes Rallying/マーチン・ホームズ・ラリーイング

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