R32と共にNISMOへやってきた男。スパ24時間で1‐2‐3フィニッシュ! モータースポーツとチューニングパーツの開発を担当|80年代自動車業界を支えた偉人たち 日置和夫 Vol.3

       
日産に入社し、R382に搭載されていたV12エンジンなどの担当をしていた日置。
70年に日産のワークス活動休止が決まると、追浜にあった中央研究所排気研究部へと異動し数年を過ごしていた。

そんな日置だったが、エンジニアを離れて海外サービス部へ移り、79年には米国日産へ出向し活躍。
11年にわたって海外関連の業務をこなし、1年だけ品質保証部で座間、愛知工場を担当した後、88年には追浜に戻ってスポーツ開発車両センターの課長に就任。いよいよモータースポーツが本業となり、設計・実験部隊70人を率いた。

そして1990年。

出向という形でついにNISMOの技術担当部長となる。

R32GT‐Rが市販に移された直後であり、さらにレースデビューを果たす2カ月前のことだった。

 「まさにR32とともにNISMOへやってきたわけですが、当時日産の久米豊社長も社内外活性化のためにモータースポーツに力を入れる考えで、グループCカーだけでなくツーリングカー、WRC参戦を目指すパルサーGTI‐Rなどの開発を進めた時代でした。私が担当していたNISMO第2技術部はグループCカー以外をすべて担当し、R32やGTI‐Rだけでなく、K11マーチやS13シルビアのワンメイクレース、ザウルスレースなども担当しました」

 まさに日産のモータースポーツ黄金時代ともいえるが、そこでR32はグループAの全日本ツーリングカー選手権だけでなく、よりノーマルに近いN1耐久レースにも参戦。そのサポートを手がけるNISMOの重要性は高かった。

 「N1はより底辺を広げるという意味でユーザーサービスを含めての活動でしたが、ヨーロッパへの進出も考えてスパ・フランコルシャンの24時間レースにも参戦し、1‐2‐3フィニッシュという快挙をなし遂げています。パルサーGTI‐RでのWRC参戦はニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ(NISMOヨーロッパ)が活動の中心となっていましたが、残念ながらあまり活躍できずに終わっています。国内ラリーに参戦していたU12ブル、RNN14パルサーに関してもパーツ類はNISMOでやっていましたが、そういったチューニングパーツの開発、販売も大事な業務でした」

 続いて92年にはNISMOの取締役技術部長に就任し、そこからはグループCカーにもかかわるようになるが、93年にはCカーによるスポーツカーレース(JSPC)も終了。日置は95年に英国にあるニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパの社長(マネージング・ダイレクター)となり、その活動の場を英国、ヨーロッパへと移す。

「英国にはモータースポーツ・バレーと呼ばれるモータースポーツ関連の企業、団体、大学が集まる地域があり、モータースポーツの地位も高いんですね。その英国を拠点にヨーロッパには5年いましたが、ル・マン24時間レースの時は、500マイル(約800km)を自走して現地入りしたこともあります。レースはプリメーラでBTCC(英国ツーリングカー選手権)を98年、99年と制覇し、99年はメイクス、ドライバー、チーム、プライベートのすべてのタイトルを獲得しています。ドイツでもSTW(クラス2規定のドイツ・ツーリングカー選手権)にケケ・ロズベルグのチームと組んで参戦したり、ラリーは全日本ラリー選手権のAクラスチャンピオンをRACに招待して参戦させたり、いろいろやりましたね」


 マイクラ(K11マーチ)がヨーロッパで絶大な人気を誇っていた時代だが、その後、日産の体制が大幅に変更。ルノーとの提携でカルロス・ゴーンが社長に就いたのは99年のことだったが、ほぼ時期を同じくしてモータースポーツ活動の体制も変更。2000年にはモータースポーツ部が廃止され、帰任した日置は社長室直轄のグローバルモータースポーツプログラム・ディレクターに就任(主として国内業務を担当)。そして02年には再びNISMO取締役となり、パーツ開発や販売を担当し、現在はその取締役も退いてテクニカルアドバイザーという立場に身を置いている。

 「88年からずっとモータースポーツに関連する仕事を続けてきて、振り返ると恵まれた環境で仕事ができたと感じています。今は日産のモータースポーツ活動の歴史をしっかり残そうと、ドキュメントを集め、写真をスキャンするなどデータ化を進めていますが、けっこう海外からの問い合わせなどもあり、資料を残すことの重要さを改めて感じています。日産OBによる『日産アーカイブス』というボランティア組織があるのですが、そういったOBの方たちと現役の社員をつなげるような役目もしています」

 日産のモータースポーツ活動にさまざまな立場でかかわり、要所要所で卓越したコーディネート能力を発揮してきた日置。その記録を残す一方で、長い経験で得たノウハウをこれからの日本のモータースポーツの発展へと役立てるべく、また新たなチャレンジを始めている。


91年のスパ・フランコルシャン24時間レースで、R32スカイラインGT-Rが総合優勝。そのレースで一緒に頑張ったチームスタッフたちと歓喜の記念撮影。左端のサングラスが日置さん。



96年、ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ社長の当時、会社の前で撮影。ドイツ日産が走らせていたP10プリメーラと一緒に。


掲載:ノスタルジックヒーロー2010年11月号増刊 ハチマルヒーロー vol.14(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

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text:Osamu Tabata/田畑 修 photo:Ichi Kenji/市 健治

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