1980~90年代、米国、日本、欧州と渡り歩き、R32 GT-Rレースデビュー2ヶ月前にNISMOへ|80年代自動車業界を支えた偉人たち 日置和夫 Vol.2

米国日産での5年間の勤務を終えて、日本に帰任する時に、82年IMSA GTOチャンピオンを獲得したドライバー、ドン・デベンドルフさんから感謝を込めて贈られた写真立て。今も大切に保管する。

       
日産に入社し、R382に搭載されていたV12エンジンなどの担当をしていた日置。
70年に日産のワークス活動休止が決まると、追浜にあった中央研究所排気研究部へと異動し数年を過ごしていた。

そんな日置だったが、エンジニアを離れて海外サービス部へ移り、79年には米国日産へ出向することになる。
ここから日置の国際舞台での活躍が始まるのだ。

「80年代を目前に、これからは海外が忙しくなるということでアメリカへの赴任を命じられたわけです。そこでの本業は日産車の技術サービスですが、米国日産内にあったモータースポーツ部に当時は日本人が1人もおらず、米国人スタッフと日本側のパイプ役のような仕事もするようになっていきました。半ば押しかけのような形でしたが(笑)。それからIMSAのレースなどで現地のチームとも交流を持つようになり、米国における日産車のレース活動を深くサポートするようになっていったわけです」



 アメリカへの輸出が拡大していた時期だけに、日産の資金にも余裕があったのだろう。S130をIMASAのGTO╱Uクラスに参戦させ、さらに新設されたGTPクラスには日産のエンジンを搭載したローラT810で参戦するなど、アメリカでのレース活動に力を入れていくことになる。活動主体はもちろん米国日産のモータースポーツ部だが、そこに日置もかかわっていたわけだ。

「日産からの依頼で、当時国内のレースに出ていたグループ5マシンのミッションの注文に応えたりもしていましたが、この米国日産でのレース活動では多くのものを得ました。当時、日本ではレースを見に行くのは若者がほとんどでしたが、アメリカでは家族そろってキャンピングカーでレースを楽しんでいましたし、ドライバーもサービス精神旺盛です。モータースポーツの知識があった私にとっても、そのインパクトは大きかったですね」

 本業の技術サービス業務をこなしながら、本場のモータースポーツにどっぷりと漬かって数年を過ごした日置。技術サービス部に日本人が3人しかいない中で、米国流のコミュニケーションも学んだという。

「英語を使うのに抵抗がなくなり、米国人の友人もできましたし、クルマの使い方や考え方、感性の違いを学ぶことができたのは大きかったですね。モータースポーツだけでなく、視野が広がったと思います」


 国際人としてひと回り大きくなった日置は84年に日産へ帰任し、海外サービス部へ配属されて中近東、アジア大洋州などを担当する主担として腕を振るうことになる。

「85年にアジア担当になったとき、ちょうどタイにパタヤサーキットができ、海外サービスのかたわらで訪れる機会がありました。その頃はまだヘルメットはかぶっているものの、Tシャツ1枚でグローブもせずにサーキットを走っている人もいて、そういった人たちにいろいろ指導をするスクールのようなものをサポートする形でかかわったこともあります。日産はパタヤ・グランプリのスポンサーもしていましたし、ここでもモータースポーツとのかかわり合いがあったわけです」

 こうして海外サービス部から約11年にわたって海外関連の業務をこなし、1年だけ品質保証部で座間、愛知工場を担当した後、88年には追浜に戻ってスポーツ開発車両センターの課長に就任。いよいよモータースポーツが本業となり、設計・実験部隊70人を率いる立場となる。

「このときはなかなか勝てなかったHR31スカイラインの見直しと、次期型のR32GT‐RグループAの開発、WRC参戦を目指すパルサーGTI‐Rの開発、それとパオ、フィガロといったパイクカーの開発も担当していました。エンジンが壊れやすかったHR31は追浜へ持ち込んでやり直して、だんだん勝てるようになっていくのですが、やはり結果が出るといい方向に回りはじめるんですね。このHR31GTS‐Rでのトライが、R32GT‐Rでの参戦につながっていくことになります」

 ちなみに、ちょうどこの時期にはU12ブルーバードのSSS‐R、B12サニーVRといったモータースポーツのベースマシンが市販に移されている。こういったクルマにはかかわっていたのだろうか?

「ちょうどその頃はスポーツ車両開発センターへ移る前の、品質保証部で主担をしていた時期です。通常の市販車とは違ったクルマをメーカーとしてどのように保証していくか、モータースポーツの現場での経験を基に、いろいろとアドバイスしました。でも、追浜の生産車のラインに流すのに、担当は苦労していました」

 スポーツ車両開発センターでモータースポーツ車両の開発を2年間手がけた後、90年には出向という形でNISMOの技術担当部長となる。R32GT‐Rが市販に移された直後であり、さらにレースデビューを果たす2カ月前のことだった。


1984年4月、南カリフォルニアにあったサーキット、リバーサイド・レースウェイにて。IMSA仕様のS130Zの前で。


掲載:ノスタルジックヒーロー2010年11月号増刊 ハチマルヒーロー vol.14(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

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text:Osamu Tabata/田畑 修 photo:Ichi Kenji/市 健治

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