最強のレース組織 日産ワークスの歩み 5

1966年の第3回日本グランプリが、R380の実質的なデビュー戦で4台がエントリー。R380 1型改の8号車は生沢徹車で瀧進太郎のポルシェ906を徹頭徹尾ブロック。性能で劣る当時のR380には集団戦以外に勝機は見いだせなかった。


1966年8月1日、プリンス自動車工業は日産自動車に吸収合併されることになった。この合併はいろいな意味を持っていたが、レース部門から眺めると、プリンス自動車が誇るR380の技術力、日産が培った最強のドライバーが組み合わせられ、日本最強のレース組織が誕生することを意味していた。かくして1967年の第4回日本グランプリには「日産R380」として参戦し、宿敵ポルシェに真っ向対決を挑む!

 R380プロジェクトの発端は、第2回日本グランプリで新鋭のスカイラインGTが、ポルシェ904に敗れたことから始まっていた。

 あくなき性能への挑戦にエンジニア魂を触発されたプリンスは、自分たちが持ち得る技術ノウハウを元に、プロトタイプR380の基本構成要素を積み上げていったのである。1.車両カテゴリーはグループ6、2.排気量は2000cc、直6DOHC、ウエーバーキャブ3連装、3.鋼管スペースフレーム構造のシャシーにアルミボディを架装といったあたりが大まかなところで、ベースシャシーはブラバム社のBT8(SC64型シャシー)を手本にした。このため、ミッドシップマウントのレイアウト、サスペンション形式(フロント/ダブルウイッシュボーン、リア/アッパーI字アーム+ロワ逆A字アーム+上下ラジアスロッド)は同じになったが、BT8が直4エンジンだったことに対してプリンスは直6エンジンを選んだため、エンジン搭載位置に関してBT8からの変更を余儀なくされていた(センターバルクヘッドがコクピット側に押し出されているのはこのため)。

 エンジン開発(GR8型)に関しては、当初R380の投入を予定していた1965年の第3回日本グランプリが中止になり、代わりに開催された船橋CCCレースのスカイラインGT用に開発した、クロスフローヘッドのエンジンノウハウ(G7R型)が大きく生きたという。GR8型の出力指標はリッターあたり100ps。最高速度は比較的簡単に250km/hを突破するようになっていた。

 そのR380がグランプリに代わって挑んだのは、日本自動車研究所の高速周回路を使う国際速度記録会(クラスE)だった。挑戦7項中の4項目で記録を更新したが最後で転倒。1週間ほどおいて再度挑戦したが、今度はミッショントラブルのため短時間で途中棄権を強いられていた。さらに、日本自動車研究所の高速周回路がFIAの公認を受けていないことが判明し、4項目の更新記録は参考記録(日本記録)にとどめられていた。

 1型は、速度記録挑戦会で得られた走行データを元に、1966年の第3回日本グランプリに向けて対策が施されることになった。完成したのは意外と遅く1966年2月のことで、このモデルが1型改となった。富士スピードウェイでの初期テストで2分11秒台を記録。信憑性のほどは定かでないが、このとき青地のコンピューター(電算機)シミュレーションでは、1分59秒台(!)が可能だったという。

 現代と異なり解析された入力要素の絶対数が少なく、また考え得る変位要素も少ないため、こうしたタイム予測が可能になったものだと思われる。結局テストでは、2分3秒台をコンスタントに記録し、ベストタイムは2分1秒台まで伸びたという。グランプリでは砂子義一が2分5秒台のファステストラップを記録して優勝したが、マシンに不慣れなタキレーシングのポルシェ906を相手に辛勝だったことは、むしろ山のような問題点をさらけ出す格好となっていた。

クルマ
第4回日本グランプリに投入されたR380は、プリンス時代の1型から大きく発展したFRPボディを持
つ2型だった。R380はその後も改良は続けられるが、基本的にはこのモデルがベースとなっている。
9号車は北野車。


 ポルシェ906との実力差を痛感した開発陣は、翌年のグランプリに向け、R380を全面的に造り直す決断を下していた。基本が残るのは、骨格となるフレームとエンジンぐらいのものだったが、これらについても考えられる改良は、当然ながら加えられていった。

 新型車はⅠ型で得られた反省点から、空力性能と操縦性能の向上にポイントが置かれ主な対策点は、1.空力性能に優れたボディ形状への変更、2.造形の自由度、軽量化に貢献するためボディ材質をFRPに変更、3.ワイドトレッド化とサスペンショ  ンジオメトリーの変更、4.ミッションの変更。これらの改良により、補強が行われたにもかかわらず、車両重量はI型の660kgから20kg減の640kg(日本グランプリ時)に抑えられていた。

 Ⅱ型による初の富士スピードウェイでの走行は、いきなり2分3秒台をマークする順調な滑り出しで、ドライバーからも「乗りやすい」という評価が得られ、グランプリ直前には1分58秒台までタイムを詰める状態に仕上がっていた。なお、この当時のエンジンパワーは220psレベルにあったと思われる。

 こうした順調な過程を経てきたために、グランプリ本番はポルシェ906と遜色のないレースができると思われていたが、結果的にレース中に起きた2度の大スピン劇に巻き込まれ(序盤の北野車、前半の高橋車)、その再始動に手間どったことから勝機を逸す苦い展開となっていた。ちなみに予選ポール、レース中のベストラップはともに生沢徹のポルシェ906で、それぞれ1分59秒43と2分00秒80が記録されていた。

クルマ2台
11号車が大石、6号車が瀧。R380は高橋国光、北野元、砂子義一、大石秀夫の4人に託されたが、プ
ライベートながらタキレーシングのポルシェも生沢徹、酒井正、瀧進太郎の3台をそろえ戦力的には互
角だった。実際、スピード面では遜色なかったが、車両熟成度の差が勝負の明暗を分ける形となった。

サーキット
ポルシェ勢はプライベートながら、本国ドイツからメカニックのJ.ロイヒレンが派遣され、セッティ
ングやメンテナンスにワークスのノウハウが注がれることに。リフトを抑えるノーズフリップの装着
も彼の手によるものだった。そのかいあってか生沢が1分59秒43でポールポジションを獲得。2番手
にも酒井がつけていた。



 グランプリ後にその敗因を分析した結果、II型の最高速度が270km/hと意外に伸びていないことが突き止められていた。また、その原因が空気抵抗の大きさにあるのではないかと見当がつけられていた。しかし、この時点でのR380は、動力性能的にはポルシェ906に追いつくか、わずかに上回るレベルにまで達し、少なからずポルシェ勢に脅威を与えていたことも事実だった。

「相手はワークス。総力をあげて開発が進められた車両だけに、プライベートのわれわれが相手をするにはあまりに大きな脅威」と前年までプリンスに籍を置いた優勝ドライバーの生沢徹は、R380を振り返って語っている。またポルシェ勢は、レースタイヤを手掛け始めたばかりのブリヂストンを使うこともハンディとなっていた。結果的には、ハンドリングを含む車両完成度の点で、R380はポルシェ906にまだ遠く及ばず、今後解決すべき問題がいくつか顔をのぞかせた日本グランプリだった。


掲載:ノスタルジックヒーロー 2011年8月号 Vol.146(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

text&photo:Akihiko Ouchi/大内明彦 cooperation:Nissan Motor Co.,Ltd./日産自動車

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