なかなか乗らせてもらえなかったトヨタ2000GT試作車【細谷四方洋 × 鮒子田 寛 2】美しいワイヤーホイールは走行中に緩んでお蔵入り|N2dレジェンド・ドライバーズ トークショー Vol.2

1966年10月、3昼夜にわたって谷田部のオーバルコースを走り続け、3つの世界記録と13の国際記録を打ち立てたトヨタ2000GT。台風だけでなく、睡魔との闘いも熾烈だった。

       
トヨタのテストコースにトヨタ2000GTを持ち込んだが、すぐに細谷にステアリングを委ねてはくれなかった。1台しかない大切な試作車なので、勢いよくテストコースを走って壊されてはたまらない、と最初に写真を撮ったのだ。現在もこのときに撮った写真は大切に保管され、自動車雑誌などに載ることも多い。十分に写真を撮った後、テストコースを走り出し、高いポテンシャルを秘めていることを確認した。

 トークショーで、細谷は開発のときにこだわった点、改良してもらったところなどを語っている。完成した1号車と2号車は美しいワイヤーホイールを履いていた。これは細谷が提案し、ヤマハに作らせたものだ。だが、走行しているうちに緩んでしまった。だから市販されるときはマグネシウム製ホイールに代えられている。

「ドライバーとしては、野崎さんにフェンダーの上にラインをつけてほしいとお願いしました。スピンしたときに、クルマの方向を分かりやすくするためです」と、細谷は舞台裏を明かした。



 細谷がトヨタ2000GTの開発に没頭しているころ、鮒子田は同志社大学に通うかたわら、幼稚園のバスの運転手をし、レーサーになるための資金をため、ホンダS600を購入してサーキットに繰り出していた。

 鈴鹿サーキットでスポーツ走行(タイムトライアル)していたときに、ホンダチームの監督の目に留まった。それでホンダのジュニアチームに迎えられたのである。一度も実戦に出ないまま、ワークス系のチームに入ったことに、会場からはどよめきが起こった。

 鮒子田は、66年1月の鈴鹿500kmレースで総合4位に食い込み、TIクラスではウイナーとなっている。このとき総合優勝したのが、トヨタスポーツ800を駆った細谷だ。ロータス・レーシングエランを降して優勝を飾った。トークショーでは2人のツーショット写真が紹介されている。このときに500kmをノンストップで走ったため、レースが終わるとすぐにトイレに飛び込んだ、という笑い話も披露した。

 5月に開催される第3回日本グランプリに、ホンダは勝てるマシンがないことを理由に出場を見合わせている。

 困ったのは鮒子田だ。そこでホンダを飛び出し、つてを頼ってトヨタとのコネクションを取り、鮒子田は念願のチーム・トヨタに入ることができた。



1966年10月、3昼夜にわたって谷田部のオーバルコースを走り続け、3つの世界記録と13の国際記録を打ち立てたトヨタ2000GT。台風だけでなく、睡魔との闘いも熾烈だった。

掲載:ノスタルジックヒーロー 2012年6月号 Vol.151(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

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text : Hideki Kataoka/片岡英明 photo : Motosuke Fujii/藤井元輔

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