トヨタ2000GT「図面を引いたのは間違いないが」【細谷四方洋 × 鮒子田 寛 1】レーシングスーツに身を包みチームトヨタの2人が壇上に|N2dレジェンド・ドライバーズ トークショー Vol.1

       
ノスタルジック2デイズ恒例となり、多くの人が楽しみに待っているのが往年のワークスドライバーが、若かりし頃の秘話を熱く語るトークショーだ。初日のゲストは、トヨタ自工(当時のトヨタのワークス)、チームトヨタのキャプテンを務めた細谷四方洋と鋭い走りでファンを魅了した鮒子田寛だ。

 今回、2人はレーシングスーツ姿で壇上にのぼり、詰めかけたファンを驚かせた。細谷はトヨタでレース活動を行う前に読売ラリーに出場し、日本一周4000kmを走って総合2位に食い込んだ秘話や、教習所の教官を務めていたことを明かした。

 その後、鈴鹿サーキットで行われた第1回日本グランプリC‐IIレースに、プライベートのパブリカ700で挑戦した話になったが、その内容は驚きの連続。先輩の岡本節夫のピンチヒッターとして出場し、細谷だけホワイトリボン付きのタイヤで走ったことなどを語った。このときに3位入賞を果たし、その走りのテクニックが認められ、トヨタと契約したのだ。

 京都で育った鮒子田は、第2回日本グランプリを観衆として見ていた。このときも細谷はパブリカ700で出場し、2位に食い込んだ。ところが、鮒子田は細谷の走りを覚えていないと言い、笑いを誘った。この後、ホンダS600を買って鈴鹿サーキットを走っていたが、光る走りが認められ、ホンダのジュニアチームの一員となった。レースの経験がないのに、ワークス系チームからお呼びがかかったのだ。

 その当時、トヨタのレース部門の指揮を執ったのは、トヨタ自工の製品企画室に籍を置く河野二郎である。河野はモータースポーツ担当だったが、トヨタ2000GTの開発も並行して行っていた。2人にとっても、特別の思い入れがあるスポーツカーだ。

「第2回日本グランプリ後の飲み会の席で、河野さんから世界に通用するグランツーリスモをヤマハと共同で開発すると打ち明けられた」と、細谷はトヨタ2000GTとの出合いを語った。

「量産車では夢のあるクルマは望めないので、スポーツカーの開発に乗り出したのです。設計はトヨタ主導で行いました。夏ごろから開発が始まったのですが、少人数のプロジェクトだったので何でもやりましたよ。雑用もやったし、驚くでしょうが図面も引いているんです。ドライバーとして提案も出しました。第1号車は翌65年の8月14日に完成しています。河野さんを横に乗せてヤマハの本社工場まで行き、昼食をいただいた後、ウキウキしながらトヨタに戻ってきました」と、細谷は懐かしそうに語った。

 ところが、図面を引いたのは間違いないが、真相はデザイナーの野崎喩のアシスタントを務め、原寸大の図面の線を引く作業を手伝ったのだ。真相を知ったファンからは笑みがもれた。



日本のモータースポーツの黎明期に、ドライバーとしてだけでなく、クルマの開発にも携わったチームトヨタのキャプテン、細谷四方洋(右)と、光る走りを見せた鮒子田寛(左)。


掲載:ノスタルジックヒーロー 2012年6月号 Vol.151(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

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text : Hideki Kataoka/片岡英明 photo : Motosuke Fujii/藤井元輔

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