【9】排気量無制限!? 第5回日本グランプリとグループ7というカテゴリー|最強のレース組織 日産ワークスの歩み Vol.9

ポルシェの登場に衝撃を受け、常にその背中を追うようにしてモーターレーシング活動を続けてきた日産(プリンス)にとって、熟成を重ねたR380が、その指標であった906や910と互角かそれ以上の戦いを繰り広げた第5回日本グランプリの内容は、ひとつの目標達成点として高く評価できるものだった。

 R380は、その後も改良を積み重ねて珠玉の域に達していくが、グループ7カーの時代を迎えた日本のモーターレーシング界にあっては、すでに主役の座を務めるほどの余力は持ち合わせていなかった。日産初のグループ7カーR381は、こうした状況下で企画された車両だった。


 第4回日本グランプリの終了から4カ月後の1967年9月、翌68年に開かれる第5回日本グランプリの車両規定が発表され、グループ7カーによる参戦が可能となった。

 グループ7カーは、スポーツカーのフォーミュラ・リブレ(=規格外)となるカテゴリーで、グループ6/4に課せられた排気量や生産台数の枠組を不問とした車両規定である。

 もともとは、小型スポーツカーレースの盛んなイギリスから発祥したが、車両規定でオープン2シーター以外にこれといった取り決めがなかったことから、北米大陸のスポーツカーレース関係者がこれに着目。排気量制限のないことがポイントだった。

 大排気量エンジンが日常的な存在だった彼らの目には、この素材をローコストで生かせるグループ7カーの規定が、大きな魅力として映ったのだ。

 こうして北米大陸に浸透し始めたグループ7カーは、台数が揃うことでシリーズ戦が組まれるようになり、さらに北米全土の規模に発展してCAN‐AM(カナディアン・アメリカン・チャレンジカップ)シリーズの発足(1966年)となっていた。

 日本で1966年といえば、日本グランプリが鈴鹿サーキットから竣工間もない富士スピードウェイに移され、プロトタイプのR380がレースデビューを果たした年である。

 産声を上げたばかりの2Lプロトが、これから本格的な発展を遂げようとしていたころ、北米大陸では5L、6Lのオープン2シーターが、アメリカンV8固有の野太い排気音をまき散らしながら、サーキットを所せましと走り回っていたのである。

 そして、こうした状況からわずか1年後の1967年秋に「来年の日本グランプリはグループ7カーも可」と発表されたわけだから、日産(プリンス)陣営にとっては「またか!」という思いがあったことだろう。

 ただ、同年の第4回日本グランプリがたった9台の車両で争われた現実を振り返れば、エントラント増が急務であったことは誰の目にも明らかで、そのためにはグループ7規定の導入が有効であることも理解されていた。

 また、グループ7化が実行されれば、ローラやマクラーレンのグループ7シャシー、シボレーやフォードのチューニングエンジンなどといった需要が発生し、レーシングコンストラクターやメンテナンスガレージなども含め、新たなレーシングビジネスが生み出される好機となっていた。

 このタイミングで日米の仲介役を務めたのが、ドライバーとして日本グランプリを走ったこともあるドン・ニコルズ(第4回の時はR・クラークの登録名)だった。イベントの招聘、グループ7シャシーやV8エンジン、チューニングパーツの輸入などにかかわり、創成期の日本モーターレーシング界にあって重要な役割を果たしていた。

 後にアメリカへ戻り、AVSシャドウ(後のUOPシャドウ)の創設者としても知られるニコルズだが、日本にグループ7カーを根付かせた張本人(多分に商売人として動いた印象のほうが強いが)として日本モータースポーツ史上に残る人物である。


68年日本グランプリ出走時のR381。フルスカート形状のリアエンドがグループ6からの改造であることをうかがわせる。



69年5月「フジスピードカップ69」出走時のR381。ウイング高やカウル形状に変更を受け、エンジンが待望の日産内製GRX系5LV12となる。映画「栄光への5000km」のロケ場面となったレースである


69年8月のNETスピードカップ出走時のR381。可変ウイングを廃し、ついたて型のリアスポイラーとインダクションポッドを備えるボディ形状に。振り返ればR382につながるデザインであることがひと目で見てとれる。

掲載:ノスタルジックヒーロー 2011年12月号 Vol.148(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

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text&photo:Akihiko Ouchi/大内明彦

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