壮絶! 火炎を吐く量産車! 600psに迫るターボパワー|NISSAN the Race|日産 シルエット フォーミュラ スカイライン Vol.1

1970年代のほぼ全般にわたり、自動車メーカーに課せられた「自動車排出ガス対策」の足かせは、モータースポーツ活動を封じる大きな重石となっていた。ともすると、騒音と排気ガスを撒き散らし、エネルギーの無駄づかいと見られがちなモータースポーツだったが、こうした道義的な責任問題からではなく、どのメーカーも資金と有能な人材を排ガス対策に割かれ、モータースポーツを行うだけの余裕がなかったからである。

 日産の場合もこの例に漏れず、73年中頃にワークスによる活動を休止すると、以後モータースポーツの表舞台に登場することはなく、間接的に技術支援を受けた有力プライベーター(宣伝3課含む)が、量産車ベースのカテゴリーで活動するにとどまっていた。

 この頃になると、追浜と荻窪の2拠点に分散していた特殊車両課も追浜に一本化され、文字通り特殊技術の実験開発部門として機能していた。なお、モータースポーツ活動はいったん休止状態(当時の雰囲気では無期限休止)となっていたが、ドライバーのワークス契約はしばらく残されていたようで、さらに長谷見昌弘はラリーカーの開発を行うため毎年契約を更新していた、といういきさつがあった。

 国内のモータースポーツ活動をいったん休止した日産ワークスだが、対外活動はバイオレット(710/PA10)によるWRC活動を早々と再開。長谷見はグループ2/4ラリーカーの国内テストドライバーとして、引き続き日産ワークスに籍を置くことになったのである。日産のWRC活動については、また機会を改めて紹介したいと考えているが、ターマック、グラベルを問わず競技車両の開発をおこなえた長谷見の開発能力は、日産にとっても貴重な資産であったようだ。

 さて、この時代の日産特殊車両課にあって、絶対に見落とせない継続プロジェクトがひとつあった。ターボチャージャーの実用化に向けた開発である。日産は510/610ブルーバードの時代からターボチャージャーの開発に取り組み、海外レース(74年マレーシア、710バイオレットターボ)では優勝する実績も残していた。

 その一方で、79年に日本車初の量産車ターボとして登場した430セドリック/グロリアの実用化開発も手がけ、小回りが利く特殊技術部隊としてその能力を発揮していた。

 こうした意味では、この79年に「スーパーシルエット」レースが始まったのも偶然ではなかった。排ガス規制は文字どおり「53年規制」と呼ばれたように、昭和53年(78年)からの実施が目標となり、多少の時間差はあったものの各社この期限をみごとに達成。大手を振ってレースに復帰できる環境を整えていた。

 自ら率いるセントラル20から、柳田春人が大森(宣伝3課)経由のPA10バイオレットターボで、このレースに参戦したのも偶然のタイミングではなかったのである。

 当時の日本のモータースポーツは、フォーミュラカー(F2)と富士GCシリーズが頂点に立つ形となっていたが、いずれもプライベートチームがエントラントの対象となるレースで、当然ながら、メーカーがワークスチームとして参戦できるカテゴリーのレースは存続していなかったのである。

 79年に始まったシルエットフォーミラレースが、当面はプライベーターの参戦を前提としながらも、先々メーカー系のエントラントを見込んでいたことは、使用する車両がメーカーによる開発が必要なグループ5規定(シルエットフォーミュラ)であることからも明らかだった。


ボディ全幅は1980mm(ブルーバードは2000mm)とオリジナルから300mmもワイドに。



片側で150mm以上の張り出しを持つ前後オーバーフェンダー



らには補助ウイングを持つ超大型(当時としては)リアスポイラー、さらに大型のフロントスポイラーを装着した外観の迫力は当時の常識では考えられないものだった。



ノーマルの面影はどこにも見られないキャビンだがボディ外観はオリジナルボディの形状を順守しなければならなかったグループ5規定。このため基本骨格はスペースフレームで組まれたがボディ形状はいっさい無変更。ボディの投影形状はオリジナル、空力パーツによる大幅モディファイからシルエットフォーミュラと呼ばれた。


掲載:ノスタルジックヒーロー 2012年6月号 Vol.151(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

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text : Akihiko Ouchi/大内明彦 photo:Masami Sato/佐藤正巳

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