ハコスカに携わった3人のデザイナーが集まった|C10スカイラインのデザイン秘話公開 Vol.1

       
C10スカイライン(以下ハコスカ)の人気の秘密をさぐるため、今回はハコスカに携わった3人のデザイナーに集まってもらった。すると今までオープンになっていなかった新事実が続々とあらわになった。

 まずは3人のうちの先輩格の森典彦のプロフィールからひもといてみよう。




 森は静岡県浜松市鴨居町に1928(昭和3)年8月18日に生まれた。父親は鉄道省浜松工場に勤務していたが、日中戦争の頃、国策として科学技術にかかわる高等教育機関の新設が進められた。その一環として、森が小5の時、父親が多賀工専(現在の茨城大学工学部)の金属工学の教授として迎えられたので茨城県日立市に転居した。中3の時、父親が横浜市戸塚の東亜冶金工専の教授になったため、森は神奈川県の湘南中学へ転校し、藤沢市鵠沼に移り住んだ。だが、学校には1カ月通っただけで、すぐ学徒動員に駆り出され、寒川の海軍で働いた。45年には4年生と5年生が異例にも同時卒業した。旧制一高に入り、そして東京大学に入学し、工学部応用物理学科に進学した。  

 卒業後、父親と多賀工専の校長が富士精密工業(61年、プリンス自動車工業に改称)の中川良一(零戦の栄二一型と誉エンジンの主任設計者)と知り合いだったため、55年の中途採用で富士精密に入社した。プリンスのルーツは中島飛行機と立川飛行機である。デザイナーには工学的知識のある人材を選んで採用している。設計2課艤装係の意匠担当は森1人で、上司は渡辺顕一係長だった。




 2人目の八木沼秀夫は37年5月23日、東京の淀橋(西新宿)に生まれた。都立工芸高校図案科を卒業、56年4月富士精密に入社。当初意匠設計課のメンバーは森、山脇慶一、八木沼の3人だった。2t級キャブオーバー・トラック、初代クリッパー(58年発表)を担当した。その開発中に国民車DPSK(2気筒FG2D型601cc)のデザイン担当に変わる。その後2気筒では性能的に厳しいということでCPSK(4気筒FG4C型599cc)とCPSK改(4気筒FG4C改型640cc)に移行したが、開発途中に上層部の判断で打ち切られた。

「DPSKのデザインは私が主に担当しました。意匠設計課全員のコンペティション(競作)になるのですが、DPSKの時、最終的に残ったのが私の案。試作の10号車まで造っても生産車にならない。60年に量産化され、市販される直前までいったようですが、資金難で中止されました。でも、DPSKの後継モデルで世に出なかった『S8』というFFの大衆車(2BOXカー)も担当させてもらいました」と八木沼。 

 八木沼より半年早く入社した増田忠(ニッサン・プリンス・ロイヤルの主査)をリーダーとする「S8」の開発でも八木沼はデザインを任された。「S8」はお蔵入りになったが、DPSKの再来で、800ccのFFだった。

「S8のデザインは5分の1モデルまでで終わってしまったが、それに続くX1という800ccのFF車を開発しました。10台余りの試作車が造られ、担当デザイナーとしてテストコースで運転しました」と八木沼。




 3人目の松宮修一は37年9月22日に東京都世田谷区上馬に生まれる。戦争で父親が南方戦線に出征した時、中里国民学校に入学し、2年の時に山形に疎開した。戦後、東京に戻り、荒川区小学校に編入された。絵が上手だったのでよく展覧会で入選した。小6の時、三鷹に移住し、三鷹一中、都立工芸高校機械科へ入学。高校時代に自動車部へ入り活躍。くしくも前述した八木沼と同じ学校だった。卒業後エンジニアリングの会社に就職。設計施工の仕事をしながら「国民車育成要綱案」(国民車構想)のデザインに応募した。松宮は入選した3人の中に入った。

 初代ALSIスカイラインを生産していた富士精密に「未来のスカイライン」のイラストを入れて社長あてに手紙を出した。意匠設計課にいた山脇と八木沼が松宮とコンタクトを取った。山脇は松宮が投稿した雑誌『モーターファン』のイラストを以前から見ていて、有望だと感じていた。会ってみてあらためてびっくりした。飛行機の絵を描いた私家版の図鑑は素晴らしかった。山脇と八木沼は「絵もしっかり描けてるから、採用しなくてはだめだ」と上司に進言した。松宮は61年6月にプリンスへ途中入社した。

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掲載:ノスタルジックヒーロー 2012年4月号 Vol.150(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

text:Nostalgic Hero/編集部 photo:Tatuso Sakurai/桜井健雄

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