寒冷地試験も!? 「我々も量産車種を持とうじゃないか」という志のもと生まれたS30Z|フェアレディZのシャシー設計者「植村 齊氏」に聞く Vol.1

       
フェアレディZのシャシー設計者 植村 齊氏に聞く(その1)

初代S30フェアレディZはほぼ9年間で約53万2000台が生産されるという大ヒットを記録。北米テストなどで不具合を洗い出した結果、アメリカで発売されるとたちまち大反響を呼んだ。クルマは毎年改良され、特に73年9月以降の後期型の通称「2テール」や76年7月に発売されたS31などは、今でもユーザーの評価が高い。そんなZのZのシャシー設計を担当した植村齊氏に話を伺った。(本文中敬称略)

 
 植村齊は1935(昭和10)年8月17日生まれの75歳(当時)で現在もZ32フェアレディZに乗っている。東京大学工学部応用物理学科を卒業した。60年、工学部のモーター同好会のキャプテンだったこともあり、日産に入社。そして、第2車両設計課課長(小型車担当)太田昇の下でブルーバード510のサスペンションを担当した。

 その後、第3車両設計課(K17・特装車両担当)でSP/SRフェアレディの後継モデルを担当する予定だった和泉友晴が検査課長に栄転することになり、その代わりとして植村が選ばれることとなった。当時の鎌原秀実課長は「われわれも量産車種くらい持とうじゃないか」と次期フェアレディを量産車種にしようと燃えていたのだ。

 しかし、当時SP/SRフェアレディの生産台数は多くはなく、原禎一第1設計部部長(乗用車担当)は、当時の1000台/月から2000〜3000台/月にしたいと、役員会で力説した。川又克二社長はあくまでも安全策でSP/SRフェアレディと並行生産するのならという条件でフェアレディZ計画を了承した。

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 国内営業(川又社長)と設計課、次期スポーツカーのイメージは各課で大きく異なった。川又社長は「イメージリーダー(広告塔)としてのフェアレディは少量生産でいい。トヨタ2000GTに勝るものを造れ。最強のS20型エンジンを載せろ」と言う。

 しかし、設計課の植村は「それでは量産車種にはならない」と自分の考えでスポーツカー像を作っていた。

 採算ベースで対米輸出は2.4Lで3528ドル(127万円、 ポルシェ911の半分)の価格が妥当であると考えた。結局、川又社長の言うとおりSRフェアレディは残され、並行生産になったが、S30Zの発売された1年後にSRフェアレディは生産中止となっている。


69年12月には2台の生産試作車でカナダのエドモントンまで北上した。この写真を撮影したのはロサンゼルス近郊。屋根からのつららが寒さを物語っている。


掲載:ノスタルジックヒーロー2010年10月号 Vol.141(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

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text:Nostalgic Hero/編集部 photo:Ryoutetu Kamisato/神里亮徹

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