【1】20年間ともに闘った男|ヨコハマタイヤと伝説を作った レーシング・ドライバー Vol.1

和田孝夫はピカッと光る走りを見せるレーシングドライバーである。いったん自分の形にはまるととてつもなく速い。一流のドライバーも一目置くほどだ。そんな和田はヨコハマタイヤにこだわり続けた希有なドライバーである。一瞬の速さを見せるが、クラッシュも多かったドライバーがなぜヨコハマを履き続けたのだろうか。このインタビューでその秘密の糸口が見えるだろう。

       
1976年初めに、日仏整備にいた鈴木哲夫メカニックから和田孝夫の家に1本の電話が入った。
「ヨコハマタイヤ(以下ヨコハマ)のワークスカーの乗り手を探している」という話だった。

 後でわかったことだが、東名自動車のドライバーだった高橋健二が推薦したようだ。いわばレースの先輩から見込まれたかたちだ。高橋は69年にフェアレディ2000でデビューし、東名チューンのフェアレディZやサニーで活躍していた。

 和田と連絡をとった鈴木はヨコハマのサポートでアルピーヌA364(FJ1300)を走らせていた谷口芳浩のメカニックだった。鈴木と電話で30分くらい話し、1週間後にヨコハマの開発スタッフに紹介してもらうことになった。
「 一張羅のスーツを着て、平塚工場へ鈴木さんと一緒に行きました。技術設計の世古口正治さんと山下隆さん、ボクがヨコハマで一番二枚目だと思う南雲忠信さん(現代表取締役会長兼CEO)が並んでいた。

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 ボクの実力はすでに知られているようでした。一応ツーリングカー用のタイヤ開発とレース参加が決定した。第1戦は76年5月3日のJAFグランプリになった」

 ヨコハマの市販タイヤの開発は、当初望月修に任された。望月は第1回日本グランプリでスズライトを駆り優勝し、その後三菱ワークスに加わり、数々の優勝を飾っている理論派ドライバーである。

 さらにいすゞワークスドライバーになる米村太刀夫と66年からテストドライバーとして嘱託契約をしている。基本的なテストは米村が担当し、70年11月から大塚光博がレースとレース前の練習のみの契約をしている。大塚が乗るフェアレディZの所有はヨコハマで、チューナーは日仏整備(鈴木哲夫メカニックが所属)。

 71年5月には若手の谷口芳浩がタイヤテストに参加することになった。谷口に声をかけたのはヨコハマゴム本社の企画、販売営業の水野雅男だった。谷口と北海道から上京したばかりのメカニックの鈴木はウマがあった。それ以来、ヨコハマと鈴木は密接な関係になる。ヨコハマのいわば窓口として和田と接触することになった。

 そこで冒頭の鈴木から和田のレース人生を決定する「運命の電話」につながるのである。


74年3月24日の「74富士ツーリングチャンピオンレース第1戦」で和田は独走優勝。2位は右隣の松本伸夫。


掲載:ノスタルジックヒーロー 2011年12月号 Vol.148(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

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ヨコハマタイヤと伝説を作った レーシング・ドライバー記事一覧

text : Nostalgic Hero/編集部 photo : Ryotesu Kamisato/神里亮徹

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